県宝・宮下家の土雛
2023.03.082022年10月25日
大河ドラマと三井寺との関係はいかに
『鎌倉殿の13人』と三井寺
知っているようで知らなかった地元の古刹(古い寺)。今回は、滋賀県内有数の文化財の宝庫でもある三井寺の長吏さんのお話を伺えるとの事で「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を探る」ツアーに参加いたしました。
『鎌倉殿の13人』と三井寺
三井寺(園城寺)には幾度も訪れており、声明や山門と寺門の確執、弁慶の引き摺り鐘などのお話は知っていましたが、以前に大津まちあるきツアーで訪れた折、打ち捨てられた印象だった新羅善神堂と三井寺と源氏の関係に興味と疑問を持ちました。
今回はこの答えを探しに、「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を探る」ツアーに参加いたしました。
意外と知られていない三井寺
比叡山延暦寺については、一昨年の大河ドラマ『麒麟が来る』で、織田信長の比叡山焼き討ちが取り上げられたり、京都観光とのセットや『ブラタモリ』でも紹介されたりと、メジャーなイメージがあります。
三井寺については、失礼ですが桜の名所と映画やドラマのロケ地というぐらいで、私の中ではそんなにメジャーなイメージはありませんでした。
ところが今回、三井寺の福家長吏さんのお話を伺い、いかに自分が無知であったかを知る事となりました。
(※三井寺のホームページは数種類あり、こちら三井寺諸事百科の方に詳しく記述されています。また天台寺門宗としてのホームページもあります)。
三井寺の歴史年表によると、三井寺は当初「園城寺」西暦686年とされ、868年に「三井寺」を賜るとありました。その年表に源氏が初めて出てくるのは1180年(源頼政の挙兵)。三代鎌倉殿の実朝が、三井寺を復興したのが1215年。
三井寺と鎌倉幕府
頂いた資料「河内源氏と三井寺」(※福家長吏さんの資料)によると『吾妻鏡』には三井寺関連の記述もあり、頼朝が三井寺復興のため領地を寄進、「当寺(三井寺)は源家数代祟重寺也」など、いかに三井寺と源氏が結びついていたか、といった記述があるそうです。
その後の長吏も鎌倉幕府と縁があり、第58代三井寺長吏隆弁は、鶴岡八幡宮の別当で第5代将軍頼経・第6代将軍頼嗣の護持僧であり、第5代執権北条時頼と密接な関係があったと説明がありました。
三井寺と源氏
一番の関心事、源義光がなぜ新羅三郎義光とされたのか。
それについては、源頼義が三井寺にある新羅明神に戦勝祈願をし、新羅明神の氏人であった事。その三男の義光は三井寺にある新羅善神前で元服しており、源義光が新羅明神を篤く信仰していた証だと考えられます。当時、寺といえば三井寺であり、その加護を頼んでの新羅明神信仰があったのかもしれません。
鎌倉時代には北院124・中院74・南院140の堂宇(四方に張り出した屋根をもつ建物)があったそうですが、秀吉の欠所(1595年)により堂宇は激減。
さらに明治維新により寺領は一層縮小したとの事で、鎌倉・室町時代は今よりもずっと大きな寺領を持ち、強大な勢力を誇っていたと思われます。
この新羅明神と新羅善神堂については、これも三井寺のホームページの中に新羅神社考として、各地のさまざまな新羅神社を巡っています。
午後からは、ツアーガイドさんの解説付きで三井寺を拝観しました。
頂いた資料を読み込み、三井寺と源氏の関係についてさまざまなお話を伺い、またホームページを参照したりと、まだまだ興味のある事が出てきました。
興味を持った事を読み込んでいくのも面白いですが、当事者の方にいろいろな話を伺うのはもっと面白く、頭の中だけでおぼろげに考えていた事が明確になり疑問が解けたりと、より興味の深堀ができて勉強になりました。
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