これから どうする(1)
2022.08.132022年08月26日
20歳の自分に出会う旅・その後
これから どうする(2)封印を解く
【20歳の自分に出会う旅】を書く中で、これからのために封印を解いた方がいいと思うようになりました。満蒙開拓平和記念館に行くためには、心の準備が必要でした。
封印していた過去
私たちはいわゆる「もらい合わせ」という形で、親戚筋の(夫方)家に入りました。子がない再婚同士の老夫婦の将来を、心配した親戚が私たちをすすめました。
何ということか、望まれて行ったはずの新生活は苦難の始まりでした。
生活費は私たち2人で働いた収入で賄い、金銭はもらえません。毎日毎日続く暴言。
子が生まれ家にいるようになると、暴言はさらにひどくなりました。親兄弟との行き来は難しく、友人との交流は途絶えました。夫に相談しても、解決になりません。夜遅くまで働き、休日もままならない生活でしたから。
ちょうどその頃、中国大陸に残されてしまった人たちについての報道が多くなってきました。生き別れになってしまった家族や、泣く泣く子どもを中国人に預けた人などの情報を見聞きするようになっていました。
苦しみから逃れようと、生まれたばかりの子を抱いて、良からぬことも考えました。とうとう、限界がきて……夫と子どもと家を出ました(早く判断をすれば良かった)。
それからは、いろいろな出来事を思い出さないようにして、暮らしてきました。楽しい新婚生活の経験はありません。
本当の事を知りたかった
養父は満豪(まんもう)開拓で、満州へ行き、戦争のため家族と別れ別れになっていたのです。
当初、養父は『家族は死んでしまったと思う。開拓? 中国人を追い出した場所だから、開拓なんてしていない』と語っていました。
私は想像しました。「元の家族が見つかった? 亡くなったと思っていた実の子どもたちが、生きているのが分かったのではないかしら? だから私たちが邪魔になったのかもしれない」と。
実際、昭和60年(1985年)頃には、実の息子さんが家族を連れて帰国しました。別れてから長い年月を経て。
血のつながりだけの親子。一緒に生活するのは、なかなか難しかったらしく、トラブルも聞こえてきました。誰も悪くないのに気の毒なことでした。
そして皮肉なことに、その中の子ども1人が、我が子のクラスに入りました。当時、ものすごいショックを受けました。ドラマのような出来事です。
先日、人生相談を聞いていたら『攻撃は優しい方に向かう』と言っていました。ぶつけようがない怒りを、私に向けていたのでしょう。
自分の体験とは別に、当時本当にあったことを知った方が良いと思いました。
中国残留孤児を助けた、山本 慈昭さん。国や政治家は何をしていたのですか。
大陸の月は、赤く燃えるようだと聞きました。
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