枝元なほみさん 病気を受け入れて見つけた新たな使命
2024.11.262018年08月23日
家族との思い出旅行、そして2回目の治療へ
私のC型肝炎治療記 その2
40代でC型肝炎が発覚。診断結果にとまどいながらインターフェロンでの治療を進める。病と共存していく覚悟を決め、その後新薬で完治。22年間の闘病と完治の過程、家族との歩みを振り返ります。今回は2回目となる治療と病との共存を再決心したお話です。
病と向き合う姿は「たんぽぽ」の綿毛に乗って
C型慢性肝炎と診断される前の年、私は、大きな喪失感を伴う経験をしていました。親友を、がんによって39歳の若さで亡くしていたのです。5歳、10歳、12歳、3人の男の子を遺しての死でした。
家族と共に生きたい! という強い気持ちから、ありとあらゆることに挑戦していた彼女。余命僅かと告げられてからは、心の整理をし、両親、兄弟、子どもたちを、一人ずつ病室に呼びお別れの言葉を交わした彼女。亡くなる1週間前、ご主人に車イスを押してもらって散歩し、「もっと生きたい! もっと一緒にいたい! ずっと一緒にいたい!」と、涙をポロポロ流した彼女。
1年2か月を駆け抜けた闘病の記録は、ご主人の手で小冊子「たんぽぽ」にまとめられ、私たちに手渡されました。病に向き合い、最後まで家族への愛を貫いた彼女の生き方は、私の心の中にも、しっかりと根を下ろし息づいていたのです。
2回目のインターフェロン治療を決意
1995年に1回目の治療が効なく終えた後も、できるだけ肝臓の傷みを遅らせようと、仕事帰りの肝庇護剤点滴と、2種類の飲み薬朝夕2回の服用を続けていました。一方で、C型肝炎と共生しながら家族と自分のための人生を生きると決めていたので、仕事に精一杯取り組み、時間を作っては離れて暮らす娘たちや実家の両親も交えて旅行をしていました。
ところがしばらく経つと、肝臓の壊れ具合を表すGPT・GOTが、正常値を大きく超えるようになってきました。すぐにでも肝硬変になってしまうのではないかと不安でいっぱいになりました。
そんな時、クリニックの先生から、2回目のインターフェロン治療にも保険が適用となり、著効率も70%にまでアップしている、再度インターフェロン治療を受けてはどうかとすすめられました。
私は、先生からの話と共に、「もう、治療はしたくない」私の意志を家族に伝えました。直感に過ぎないけれど、私にはインターフェロンは効かないのではないかとも感じていたのです。
大学生だった二人の娘たちと夫は、「治る可能性が70%もあるのに挑戦しないなんてお母さんらしくない、どうしても治ってほしい」と、強く治療をすすめました。まだ小学生の息子を、再び、家に残して入院したくない! という気持ちとのはざまで、葛藤する日々が続きました。
明確なことは1つ。ウィルスを排除しない限り、一生肝がんに怯えなければならないということ。
そうして私は、2回目のインターフェロン治療を受ける決心をし、再び、長期の休業に向けて仕事の整理にかかったのでした。
2回目のンターフェロン治療
1998年7月。仕事の整理を終え、小4の息子と夫と3人でバリ島への旅に出ました。それは、自分自身の闘病への鋭気を養うためであり、息子に、点滴を受けながらベッドに横たわる母の姿ではなく、美しいバリ島の自然の中で楽しむ母の姿を刻みたかったからでもありました。
8月。最先端の治療に挑む専門医がいる病院に入院しました。治療の前に、ありとあらゆる検査が行われました。胃カメラ、大腸カメラ、腹腔鏡下の肝細胞採取etc. 検査はどれも苦しく、逃げ出したくなる思いでした。この検査によって、インターフェロンが効きにくいタイプのウィルスであることが分かり、治療方針が決められました。インターフェロンβの朝、夕2回の点滴を4週間。続いてインターフェロンαの点滴を可能な限り長く。
開始から約2か月後、血液検査の結果から無効と分かり治療は打ち切られ退院。迎えに来てくれた夫と息子と3人で、美しく花が飾られたフレンチレストランで食事をしながら、C型肝炎との共生を再び決意したのです。
次回は、家族のイベントと向き合い、新しいことにもチャレンジする生活へとシフトした9年間と、3回目の治療に至る経過について話をします。
■harumatiさんの闘病記一覧はこちら
第1回 私のC型肝炎治療記 その1
第2回 私のC型肝炎治療記 その2
第3回 私のC型肝炎治療記 その3
第4回 人生の設計図を書き直す日 その1
第5回 人生の設計図を書き直す日 その2
第6回 人生の設計図を書き直す日 その3
第10回 脳出血 目覚ましい回復 そして一時帰宅へ
第11回 いよいよ退院へ~維持期のリハビリは自宅でしたい!~
第13回 退院後の紆余曲折を経て、生み出した自分流
第14回 1本の電話から始まった新しい歩み