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- 「孤独死をさせない」ドヤ街で看取り医療を始めた理由
日雇い労働者の“ドヤ街”と呼ばれた横浜市寿(ことぶき)地区、住民の約9割は生活保護受給者です。この地で訪問診療から看取りまで総合診療に取り組む「ポーラのクリニック」院長、山中修さん。山中さんの取り組み、その背景にある思いをお聞きしました。
山中修さんのプロフィール
やまなか・おさむ 1954(昭和29)年、三重県生まれ。順天堂大学医学部卒業後、同大循環器内科入局。米国クリーブランドクリニック留学を経て、90年から横浜市の国際親善総合病院循環器内科勤務。2000年、横浜市中区寿町の路上生活者を支援するNPO法人「さなぎ達」を設立。03年、国際親善総合病院退職。04年、ポーラのクリニックを開設。寿地区の簡易宿泊所に住む独居高齢者の訪問診療や看取り医療に尽力する。16年、日本医師会から第4回「赤ひげ大賞※」を受賞。
※赤ひげ大賞とは、地域に密着して人々の健康を支えている医師の功績を表彰し、広く国民に伝えるとともに次代の日本を支える地域医療の大切さをアピールする事業として2012年、日本医師会などにより創設。
ドヤ街「何でもOK」の総合診療をライフワークに
※インタビューは2020年3月に行いました。
私が寿地区にポーラのクリニックを開業したのは2004年12月。50歳の時でした。この街で外来から訪問診療、看取りまで「何でもOK」の総合診療を始めよう、それを自らのライフワークにしようと考えたのです。
寿はかつて日雇い労働者の街でした。昭和の東京オリンピックや高度経済成長期の頃には、全国から体力自慢の肉体労働者が続々と集まり、高速道路や高層ビルの建設、港湾労働などに従事しました。
彼らの多くは家族との縁が切れており、単身者として“ドヤ”と呼ばれる簡易宿泊所に住み込みました。宿とは呼べないほど劣悪な環境ということで、ヤドを逆さ読みしてドヤと称したわけです。
そんな彼らも今では年を取り、寿は65歳以上が半数を占める高齢者の街となりました。住民の約9割は生活保護受給者です。
どうして、私はここで診療を始めることになったのか。それには大きく二つの理由がありました。一つは、原点回帰。医師としての原点に戻りたいという思いがあったからです。
急性期医療の最前線で、感じた疑問
私は35歳で、横浜市にある国際親善総合病院の循環器内科部長に就きました。毎日のように急性心筋梗塞や急性心不全の患者さんが救急車で運ばれてくる、急性期医療の最前線。患者さんはすでに手遅れで、そのまま亡くなってしまうことも日常茶飯事でした。
今でこそ無駄な蘇生行為はしないとか、尊厳死といった考え方が広がっていますが、当時は助からないとわかっていても、当然のように気管内挿管などの救命処置を行っていました。言葉はよくないですが、その処置自体が若い研修医の練習台になっていた側面もあるのです。
私も若い医師たちも忙しい日常の中で気持ちが麻痺してしまい、そのような医療を当たり前のように思っていました。しかし、だんだんと疑問が出てきたんです。
当時は救急外来から当直室に戻る途中に新生児室があってね、よく赤ちゃんの声が聞こえてきました。生まれたばかりの赤ちゃんと、救命できずに亡くなった方が今、同じ病院内にいる。人が生きる、死ぬとはどういうことなのだろう……。そんなことを考え始めました。
患者さんを最初から最後まで診る、医師としての原点回帰
そもそも私が医師になったのは、開業医だった親父に頼み込まれたからでした。高校は文系コースで、将来は英語教師になろうと思っていましたが、高3の夏、医者になってほしいと親父に頭を下げられて方向転換。一浪して順天堂大学に入学しました。
医師になってから目指したのは、自己完結型の医療でした。看取りも含めて、患者さんを最初から最後まで責任を持って診る。そういう医師になりたいと思っていました。
生きる死ぬの医療の最前線で、その初心を改めて思い起こし、原点に戻りたいという気持ちが大きくなっていったんですね。また当時は管理職になり、会議や学会出席、若手の指導なども増えていましたから、そんな状況も原点回帰への思いに拍車をかけました。
「これが孤独死です」人生を変えた1枚の写真
この地で診療を始めたもう一つの理由は、ずばり寿と出合ったことでした。当時の妻――その後、離婚をしましたが――が、寿の路上生活者に毛布配りのボランティアをするというので、私も一緒に活動することになったんです。
初めて足を踏み入れた寿で、私は1枚の写真を見せられました。簡易宿泊所の3畳一間の古びた畳の上で、神に祈りを捧げるような姿勢のまま男が突っ伏している……。
「これが孤独死なんです」「こんなの3日に一人です」。写真を見せてくれた男性にそう言われ、衝撃を受けました。人生を変える1枚となりました。
路上生活をしている人たちが集まるサロンのような場所に行って、話もしました。それまでの自分が知らないことばかりで、つくづくすごい世界だと思いました。
私は商売柄かもしれませんが、「なんでそうなったのか」を突き詰める性格です。この人はなんでこの病気になったのかと原因を突き止めないことには、治療ができませんからね。
寿を知って以来、私の頭の中には「これってどういうこと?」「この国でなんでこうなるの?」と、疑問が湧き上がってくるようになりました。
人生における「起承転結」とは
そして、人生における「起承転結」ということを考えるようになりました。
“起”は生まれること。生まれる場所と親は選べませんから、自分ではコントロール不能な世界ですね。
“承”は子ども時代。例えば親の言うことを聞かないと飯を食わせてもらえないとか、家の外に追い出されるといったことが続くと、将来的にいろいろな形で問題が出てくる可能性があります。
また“転”というのは、例えば反抗期を健全に迎えられるような環境なら健康的な転じ方ができますが、そこに貧困とか暴力といった抑圧が加わると転じ方が屈折してしまう。どう転じるかで人生は変わります。
そして“結”は人生の最期。これも“起”同様、自分ではコントロール不能です。再び、おむつのお世話になる世界に還って、人生の終わりを迎えるわけです。
寿の人たちと話していると、どうしてもこの起承転結について考えてしまいます。どこで生まれたのか、どういう子ども時代を過ごしたのか、どんな転じ方をしてきたのか、と。すると、その部分でハンディキャップを抱えている人がすごく多いことに気付かされました。
そして、こう思ったんです。たまたま私は開業医の両親のもとで生まれ、恵まれていたから今の自分がいるが、彼らと同じ環境に置かれていたら、どうだっただろう。誰だって同じような起承転結になっていたんじゃないか、と。
若い頃は体力に任せてバリバリ働いたが、年金も掛けていないから、年を取って動けなくなったら生活保護という人が、寿にはたくさんいます。それを自業自得と言う人もいますが、私はそうは思いません。むしろ「よくやったじゃん」「よくがんばってきたよ」と思ってしまうんです。
医師としての原点が、ここ寿にある
寿と出合い、私の人生は大きく転じました。医師として彼らの看取りをしたいと考えるようになったのです。なぜなら、私にとって医師としての原点が、すごい原点が、ここ寿にあることを知ったからです。
もともと居場所がない人に死に場所があるはずもありません。ならば、たらい回しにならないように、孤独死にならないように、環境づくりを進めながら、看取りができる診療体制を整えていこう。もちろん、一朝一夕ではできませんから、逆算して準備をしました。
クリニックで総合診療を行うには、循環器の専門知識だけでは不十分です。国際親善総合病院の部長職を退いて非常勤となり、整形外科、泌尿器科、皮膚科、心療内科の研修医となって勉強しました。産婦人科以外は何でもやるというスタンスです。
また、寿に住む人たちの支援活動も始めました。そうやって足掛け5年の準備期間を経て、ポーラのクリニックは生まれました。支援活動や医療活動については、次回、詳しくご紹介したいと思います。
取材・文=佐田節子 構成=大矢詠美(ハルメク編集部)
※この記事は「ハルメク」2020年5月号掲載「こころのはなし」を再編集しています。
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