医師・山中修さんと考える「最後の迎え方」2

山中修さん「独居でも安心して最期を迎えられる街へ」

公開日:2021/09/14

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孤独死をなくそうと、簡易宿泊所がひしめく横浜市寿地区で看取り医療を始めたポーラのクリニックの院長、山中修さん。汚い、クサい、暗い、危険といわれた街を、独居高齢者が安心して最期を迎えられる“福祉の街”に変貌させた取り組みについて伺いました。

医師・山中修さんと考える「最後の迎え方」2

“ひとり死”であっても“孤独死”ではない

“ひとり死”であっても“孤独死”ではない

前回は、かつて“ドヤ街”と呼ばれた寿地区で、「ポーラのクリニック」を開設することになった経緯についてお話ししました。今回は寿での看取り医療、簡易宿泊所で暮らす独居高齢者の孤独死をなくす取り組みについてお話ししたいと思います。

みなさんは孤独死とはどのようなものだとお考えでしょうか。私は、一人で死ぬことがイコール孤独死だとは考えていません。

例えば自宅で介護を受けていた闘病中の高齢者が、たまたま家族が外出中に亡くなった。これは“ひとり死”ではありますが、孤独死ではないでしょう。一方、大勢の人が行き交う駅の地下通路で、路上生活者が急に具合が悪くなって突然死をした。こちらは、すぐ近くに多くの人がいても無関心で通り過ぎるならば、立派な孤独死です。

つまり、社会との関わりを失った先にある死。それが孤独死ではないかと思うのです。

女性が入っていける、安全できれいな街づくり

女性が入っていける、安全できれいな街づくり

20年ほど前、私は路上生活者への毛布配りのボランティアとして、初めて寿に足を踏み入れました。そして簡易宿泊所に住む高齢者の孤独死が非常に多いことを知り、この地で看取りの医療を始めようと決心しました。

しかし、看取りは医師一人でできるものではありません。看護師や介護ヘルパー、ケアマネージャーといった医療と福祉の専門家がチームを組んで行う必要があります。看護師やヘルパーの多くは女性ですから、女性が安心して入ることができる環境でないと、そもそも看取り医療はできないのです。

当時、ドヤ街だった寿には飲み屋やギャンブル屋、古びた簡易宿泊所などが立ち並び、街にはゴミが散乱し、酔っぱらいが路上で寝ていることも珍しくありませんでした。路上生活者もたくさんいました。汚い、クサい、暗い、危険……それが寿という街でした。

女性が入っていける、安全できれいで明るい街にしよう――。私はそんな目標を掲げ、2001年に仲間たちと一緒にNPO法人「さなぎ達」をつくり、路上生活者の自立を支援する活動を始めました。さなぎ達という名前は、当時、路上生活者の親玉のような存在だったオヤジさんが付けたものです。「さなぎは蝶々になれるから」と。

ドヤ街から看取り医療のできる“福祉の街”に

ドヤ街から看取り医療のできる“福祉の街”に

活動の軸に据えたのは、衣食住に医療と職業を加えた「医・衣・職・食・住」。“医”は私が担当するとして、まず取り組んだのが“住”としての「さなぎの家」でした。

寄付してもらったお茶や菓子、歯磨きセット、そして“衣”の下着や古着などを置き、365日いつでも誰でも立ち寄ることができるようにしました。クサかろうが何だろうが、気にすることはない。ここに来て、お茶を飲んでいってよ、と。まずは居場所をつくることで、路上から簡易宿泊所へと生活の場を移していく足掛かりにしてほしいと考えたのです。

次につくったのは、“食”を支える「さなぎの食堂」でした。寿では当時、日雇いの仕事にあぶれると区役所で「パン券」が支給されました。しかしパン券で交換できるのは、どれも冷たい食事。ならば3食温かい食事をとってもらえるように食堂をつくろう、となったわけです。同時に食堂で働くスタッフも募り、“職”の機会も提供しました。

また、ゴミが捨てられて困っていた場所には、監視カメラの代わりに花を植えたプランターを置きました。コンサートやフェスティバルなどのイベントも開いて、楽しいことをたくさん企画しました。すると街の中から外から、たくさんの人が集まってくるようになりました。多くのボランティアや寄付、自治体の協力にも支えられました。

こうして、寿は数年ほどで見違えるほどに変わりました。飲み屋やギャンブル屋は独居高齢者のためのデイケア施設に、空き事務所は介護事業所に、そして“ドヤ”と呼ばれた簡易宿泊所は介護型マンションへと姿を変えていったのです。

路上生活から社会に復帰した人、また介護ヘルパーやさなぎの食堂のスタッフとなって、お世話される側からお世話する側に育っていった人も少なくありません。かつての危険なドヤ街は、女性ヘルパーや看護師が安心して出入りできる街になりました。看取り医療のできる“福祉の街”に変貌を遂げたのです。

駅伝の伴走者のように、患者さんの最期を支える

駅伝の伴走者のように、患者さんの最期を支える

住民のほぼ半数が高齢者で、かつ約9割が生活保護受給者。そんな寿での看取り医療は大変だと思われるかもしれませんが、実は全く逆です。

住民の多くは家族と絶縁していますから、無理やり施設に入れたり、いまわの際に救急車を呼んだりして在宅での看取りを邪魔する人がいません。また、生きたいように生きてきた人たちなので、この世への未練が少なく、「ここで死ぬ」という覚悟ができています。

寿は都会のど真ん中にあり、地域が狭いですから、医療や福祉、行政との連携も取りやすい。それに生活保護受給者が多いということは医療も介護も公費負担ですから、医療費の踏み倒しもありません。私は2016年に日本医師会から「赤ひげ大賞」をいただきましたが、医療費はちゃんともらっています。だから、本当は赤ひげではないんです(笑)。

(※赤ひげとは、山本周五郎の時代小説『赤ひげ診療譚』に出てくる、貧しい人からお金をもらわずに治療する医師のこと。患者に寄り添う理想の医師像を表しています)

つまり、寿は在宅での看取り医療が非常に行いやすい環境にあるということ。かかりつけ医と看護師、薬剤師、介護会社、役所のケースワーカー、そして簡易宿泊所の帳場さんが、一人暮らしの高齢者を取り囲むようにチームを組んで支えています。いわば駅伝の伴走のようなものです。

一生懸命がんばっている走者を見守りながら、声援を送り続ける。だからゴールに辿り着いたら、かける言葉は「長い間、お疲れさん」です。決して「ご臨終です」ではありません。これまでの人生、いろいろとあった。それを乗り越えて最期の瞬間までやって来た。それはもう、本当に「お疲れさん」でしかない。敬意をこめて合掌し、この言葉をかけて見送っています。

社会との関わりを持ち続けることの意味

社会との関わりを持ち続けることの意味

2019年末、ある患者さんが73歳で亡くなりました。どの臓器で発生したのかわからないまま全身に転移した「原発不明がん」でした。

子どもの頃に小児麻痺を患い、足が不自由なため、よくいじめられたそうです。中学を卒業して塗装工になりましたが、回ってくるのは発電所の煙突内など、高所の危険な仕事ばかり。「そんな不自由な足でどうやって?」と聞くと、「体に命綱を巻き付け、宙づりになって塗った。ぶらさがったまま、弁当も食った」とのことでした。

日本の高度経済成長を底辺で支えた人が高齢になって病気になり、ここ寿で最期の瞬間を迎えようとしている。そういう人を孤独死させない、ちゃんと看取る。それが私の使命だと思っています。

激しい気性で、よく怒っていた彼も、晩年には表情が柔らかくなり、ニコッと笑って「先生、いろいろとありがとう」と言ってくれたこともありました。家族以上の寄り添い方をしてくれたヘルパーさんが自室を訪問し、彼女が帰った後、彼は一人で亡くなりました。

しかし、直前まで温かい伴走者に見守られ、社会との関わりを持ち続けていた彼の死は、決して孤独死ではありません。私自身、実際には看取っていないのですから、「なんちゃって看取り」に過ぎませんが、だからといってそれを理由に化けて出てくるとも思えません。それほど穏やかな死に顔でした。ご冥福を祈ります。

次回、「『これでいい』と思える最期の迎え方」をテーマにお届けします。

山中修さんのプロフィール

山中修さん

やまなか・おさむ 1954(昭和29)年、三重県生まれ。順天堂大学医学部卒業後、同大循環器内科入局。米国クリーブランドクリニック留学を経て、90年から横浜市の国際親善総合病院循環器内科勤務。2000年、横浜市中区寿町の路上生活者を支援するNPO法人「さなぎ達」を設立。03年、国際親善総合病院退職。04年、ポーラのクリニックを開設。寿地区の簡易宿泊所に住む独居高齢者の訪問診療や看取り医療に尽力する。16年、日本医師会から第4回「赤ひげ大賞」を受賞。

※赤ひげ大賞とは、地域に密着して人々の健康を支えている医師の功績を表彰し、広く国民に伝えるとともに次代の日本を支える地域医療の大切さをアピールする事業として2012年、日本医師会などにより創設。

取材・文=佐田節子 構成=大矢詠美(編集部)
※この記事は「ハルメク」2020年6月号掲載「こころのはなし」を再編集しています。

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