#1 母と娘の27年、書の道へ――

ダウン症の書家・金澤翔子さん・泰子さん母娘の歩み

ダウン症の書家・金澤翔子さん・泰子さん母娘の歩み

更新日:2025年05月25日

公開日:2023年06月05日

ダウン症の書家・金澤翔子さん・泰子さん母娘の歩み

ダウン症の書家・金澤翔子を娘に持ち、二人三脚で「書」の道を歩み育て上げた母・金澤泰子さん(取材当時66歳)。NHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書いたことで注目が集まった2012年当時のインタビュー【前編】をご紹介します。

2012年に放映されたNHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書いたダウン症の書家・金澤翔子さん(取材当時27歳)をご存じですか?その書と存在は多くの人に感動を与え、一気に世間の注目を集めました。

「一緒に死のうと苦しんだ日々を経て、気がつけば、いつも私は娘に救われています」そう振り返るのは、母親であり、書家として娘を指導してきた金澤泰子さん(取材当時66歳)。雑誌いきいき(現ハルメク)でインタビューした、母娘のこれまでの道のり、そして当時の思いです。

金澤泰子(かなざわ・やすこ)さんのプロフィール

1943(昭和18)年、千葉県生まれ。5歳で書道を始める。明治大学在学中に歌人馬場あき子に師事。その後、能楽「喜多流」の喜多節世、書道「学書院」の柳田泰雲、書道「泰書會」の柳田泰山に師事。現在、東京都大田区の自宅で「久が原書道教室」を開いている。2023年6月より、初のドキュメンタリー映画「共に生きる 書家・金澤翔子」が上映中。金澤翔子 公式ホームページ:https://k-shoko.org/

金澤さん母娘のこれまでの歩み

1985年
泰子さん42歳のとき、娘の翔子さん誕生

1990年
自宅で書道教室を開き、翔子さん(5歳)に書道を教え始める

1995年
翔子さん10歳のとき、「般若心経」を書く

1999年
夫・裕さんが心臓発作で急死

2005年
銀座書廊で初の個展「翔子・その書の世界」を開催

2006年
神奈川県鎌倉市の建長寺に翔子さんの書を奉納

2009年
5月に建長寺、10月に京都の建仁寺で翔子さんの個展を開催。建仁寺に「風神雷神」を奉納

2010年
5月に再び建長寺、建仁寺で個展を開催。以来、毎年5月に両寺で個展を開催

2011年
東日本大震災後、避難所で習字教室を開くなど被災地を支援。12月、奈良東大寺で個展および席上揮毫(きごう)を行い、書を奉納

2012年
翔子さんが題字を書いたNHK大河ドラマ「平清盛」の放映が始まる

翔子さんの書(金澤翔子公式ホームページより)https://k-shoko.org/

3度の流産を経て待望の出産

金澤泰子さんがひとり娘の翔子さんを産んだのは、42歳のとき。3度の流産を経ての待望の出産でした。 

「帝王切開で私の意識が戻らないうちに、仮死状態で生まれた翔子は別の病院に運ばれていき、未熟児用のカプセルに入っていました。そして生後50日目、初めてカプセルから出た娘を抱いた日に『ダウン症』と知らされたのです」

染色体が1本多いことで起こるダウン症は、700~1000人に1人の割合で生まれるといわれます。当時は今ほどダウン症に関する情報がなく、泰子さん自身も、どんな病気か何も知らないまま、『この子は知能が低く、たぶん一生歩けないだろう』と医師から告げられました。

思い詰めて、衰弱死を試みるも

「もう苦しくて、涙に暮れて聞いたのを覚えています。希望は何もなく、生きていても
本人も周りも苦しむだけ……。そう思い込んだ私は、娘と一緒に死ぬことばかりを真剣に考えるようになりました」

一方、夫の裕さんの態度は立派だったと振り返ります。

「翔子が生まれてすぐ、主人は医師から『お子さんは敗血症で交換輸血が必要です。ただダウン症もあるので、そこまでしなくてよいのでは」と言われたそうです。でもクリスチャンの主人は『僕は神の挑戦を受け入れる』と言って、娘の命を助けたのです。あとからその話を聞いた私は、心の中で『なんで助けたの?』と苦しくなるばかりでした」

思いつめた泰子さんは、ある日、ミルクを薄めて衰弱死させられないかと考えます。そして薄いミルクを翔子さんに与えようとしたときです。

「胸の中の翔子が一所懸命両手を伸ばして私の頬に触れ、小さなおててで涙をぬぐうんです。まるで『お母様、泣かないで。それは愚かなことよ」と言っているようでした。

この子はすべてわかっている、自分が始末されようとしていることも、すべてわかって私を救ってくれている、そう思いました。あの瞬間、私と翔子は強く深く心の手をつなぎ合えたのだと思います」

ビリの役をきっちりやればいい

泰子さんが「私には絶対に書けない線と形」という翔子さんの書「飛翔」

翔子さんが初めて筆を持ったのは5歳のとき。小学校の普通学級に通えることが決まった翔子さんの友だち作りのために、もともと書道の師範だった泰子さんが、自宅で書道教室を始めたのです。

「小学校に通い出した翔子は何をやってもビリ。でもビリの翔子がいると、みんな最下位にならずにすむので、クラス全体がやさしくなると先生に喜ばれました。その頃読んだ本に『神はこの世に無用なものは創らない』というフレーズがあって、翔子はビリの役目をきちっとやればいいんだ、と心に決めました」

しかし、順調だった学校生活に転機が訪れます。小学4年生に上がるとき、担任の教師から「心身障害者学級のある学校に転校してほしい」と言われたのです。

「やはり障害児はだめなんだと、ドーンと落ち込みました。そして転校先を決めるまで時間ができたため、翔子に般若心経を書かせることにしたんです。そうでもしないと苦しい心が治まりませんでした」

孤独に強い子にしようと

泰子さんは大きな紙に升目を引き、272文字ある般若心経を一字一字、翔子さんに書かせていきました。「そうじゃないでしょ?」「どうしてわからないの!」。厳しい指導に、翔子さんは涙をぽたぽたこぼし、それでも一行書き終わるごとに「ありがとうございました」と母に向かって頭を下げたといいます。

「ダウン症の子は、みんなと同じようには人付き合いできないので、どうしても孤独な時間が多くなります。だから孤独に強い子にしようと思いました。般若心経を書くのは一人でもできますから。

今となっては、あのとき朝から晩まで二人で向き合った時間が、翔子の書に対する真摯な姿勢を形作ったように思います」

大人になっていく翔子さんと、人生後半へ向かう泰子さん。心配事は、泰子さんがいなくなってからの翔子さんのこと……。続きは「母・金澤泰子#2 自分が死んだら娘は一人でどうなるか?」をご覧ください。

取材・文=五十嵐香奈(ハルメク編集部) 撮影=石野明子

※この記事は「いきいき(現ハルメク)2012年11月号」を再編集しています。
※HALMEK upの人気記事を再編集したものです。

書家・金澤翔子さん・泰子さん母娘インタビュー《シリーズ5回》

【第1回】ダウン症の書家・金澤翔子さん・泰子さん母娘の歩み
【第2回】母・泰子さん「自分が死んだ後、娘は一人でどうなるか?」
【第3回】翔子さん30歳「ひとりでも、大丈夫」念願のひとり暮らし
【第4回】つらく苦しいことは、いつか翻るもの…泰子さんが語る親の使命
【第5回】娘と歩んでわかったこと「人間は生きているだけで大成功」

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