中国残留孤児を助けた山本慈昭さん

【望郷の鐘】は今も

公開日:2022.09.17

中国残留孤児の父と呼ばれた山本慈昭さんは、阿智村・長岳寺の住職で国民学校教員でした。阿智村の開拓団員215名、妻と二人の娘と共に、満蒙開拓団・国民学校長として満州にわたったのが苦難の始まりでした。時は、昭和20年(1945)終戦の年です。

【望郷の鐘】は今も
長野県下伊那郡・阿智村長岳寺・望郷の鐘

阿智村・長岳寺

阿智村・長岳寺
阿智村長岳寺

武田信玄は野田城の戦いで病に倒れ、甲斐への帰国途中亡くなった。その場所が阿智村で、遺骸を安置したのが、この長岳寺です(遺品の展示あり)。

『騙す者と騙される者が揃わなかったら戦争は起きなかった』

記録を見る。阿智村開拓団が満州にわたって、3か月でソ連軍の侵攻が始まり、逃げまどう。

このタイミングって、どういう事? 

山本慈昭(じしょう)さんは、逃避行中に妻子と離別、シベリアへ抑留となった。2年後に帰国できたが、一緒に満州へわたった仲間・215人のうち帰国できたのは、山本慈昭さんを含めて、たった13人という。51人の教え子のうち生存者は6人

どう思いますか?

以前、山本慈昭さんをモデルにした映画を観ました。【山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日】です(YouTubeでも紹介されています)。

『騙す者と騙される者が揃わなかったら戦争は起きなかった』
望郷の鐘・鐘楼

内藤剛志・渡辺梓・常盤貴子・斎藤洋介といった俳優さんが演じています。

『騙す者と騙される者が揃わなかったら戦争は起きなかった』は、劇中のセリフです。

望郷の鐘

望郷の鐘
望郷の鐘

 四万数千人の供養のため、昭和50年(1975)鋳造されました。

望郷の鐘
望郷の詩碑

望郷の鐘

想い出は かくも 悲しきものか
祈りをこめて 精いっぱいつけ
大陸に 命をかけた 同胞に(はらからに)    
この鐘の音を送る 疾く 瞑せよ(とく めいせよ)
日中友好 手をつなぎ
共に誓って 悔いを 踏まじ
大陸に 命をかけた 同胞に
夢美しく 望郷の鐘     

精いっぱいの想いを込こめてつきました。

中国残留孤児を救ったのは、山本慈昭さん

中国残留孤児を救ったのは、山本慈昭さん
満蒙開拓平和記念館のパンフレットから

せめて遺骨を拾いたいとの思いも叶わなかった、昭和39年(1964)。昭和40年(1965)に、中国残留日本人からの手紙で生存者の存在を知り、肉親捜しを始めたのだそうです。

山本慈昭さんは、国会議員全員に手紙を書き、厚生省・外務省・法務省などを回ったが相手にされなかったそうです。厚生省の棚には、孤児たちの肉親捜し依頼の手紙が20通以上眠っていたといいます。

中国残留孤児を救ったのは、山本慈昭さん
戦の終わりし後の 難き日々を 面おだやかに 開拓者語る
平成28年天皇皇后視察(満蒙開拓平和記念館)

【満蒙開拓平和記念館】で体験者のお話(映像)を聞きました。その映像の証言から短いエピソードを書き起こした本『証言 それぞれの記憶』を読んでいます。

はじめのことばには、『つらく悲しい体験を、記憶の中から絞り出すように話してくださった皆さんの思いに心をよせながら読んでいただきたいと思います』と、あります。

15歳の義勇兵・極寒で劣悪な環境の収容所・肉親との別れ・暴動・性的虐待・集団自決という名の殺人……など、怖ろしい事実が語られています。

中国残留孤児を救ったのは、山本慈昭さん
『証言 それぞれの記憶』表紙
中国残留孤児を救ったのは、山本慈昭さん
『証言 それぞれの記憶』 裏表紙

『証言 それぞれの記憶』発行  一般財団法人満蒙開拓平和記念館 2013年7月25日発行 定価500円

満蒙開拓平和記念館:長野県下伊那郡阿智村駒場711-10 電話:0265-43-5580

もう二度と騙されないために、本当のことを知る努力が必要です。

飯田線・秘境駅 中井侍の新茶

ニュース:春に訪ねた、中井侍の新茶を手に入れました。低い温度で煎れるお茶は甘味と香りが最高です。

 

■もっと知りたい■

 

渡来夢

美しいものに触れたいとの思いから美術館に行ったり、植物を育てたり、きものリフォームなどの手芸を楽しんでいます。元気でいられるように、ピアノの練習やパンを焼くことにも挑戦しています。『やってみよう!』の精神で。日常こそ大切、工夫して、お金をかけずに楽しむこころ豊かな暮らしを目指しています。

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