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- 「せめて会議の前には着替えよう」いぬいみきさん
随筆家の山本ふみこさんを講師に迎えて開催するハルメクの通信制エッセー講座。参加者の作品から山本さんが選んだエッセーをご紹介します。今月の作品のテーマは「修理」です。いぬいみきさんの作品「せめて会議の前には着替えよう」と山本さんの講評です。
せめて会議の前には着替えよう
池のほとりにあるいつものスターバックスに寄る。
朝から曇っていたせいか、いつもはカップルや散歩帰りの高齢者集団に占領される池畔のベンチはすべて空いていて、見えない糸に引っ張られるように私はそこに腰かけた。
アオサギが一羽、池の中ほどにある岩に止まっており、飛来したマガモが数羽その周りを悠々と泳いでいる。興福寺の五重塔から飛んできたと思われるたくさんのハトが餌を求めて私の周りに寄ってくる。
静かな、静かな奈良の朝だ。
久しぶりに外でマスクをはずして出来立てのラテをひとくち飲むと、解放された気分になった。
やはり水辺はいいなと、思う。
ほとんど風のない穏やかな朝の池は、深い緑の池面に細かなさざなみが立つ程度で、対岸の五十二段(猿沢池と興福寺を結ぶ石階段)付近の鹿たちの群れも周囲の色に同化して、それがいかにも奈良らしい老々とした雰囲気である。
一口目は熱いと感じたラテも慣れてくると温かい飲み物となり、私はそれを飲み終えると誰がいるでもないのにすぐにマスクをつけ、その行為が今の日常なのだと改めて思った。
帰宅して手を洗い、うがいしようとマスクをはずして鏡に映る顔を見たとたんハッとする。
彩がない。
マスク慣れした顔には、しっかりとアイメイクは施されているのに紅がないのである。
顔全体にセピア色がひろがり、能面を思わせた。夏には還暦を迎えるとはいえ、今はまだ五十台なのに、なんだこのざまは。自ら色香を放棄してどうする。
マスク汚れが嫌で手抜きした自分に喝を入れる。授乳中でも夫より先に起きてメイクしていた私が、たかがマスク生活で何事ぞ……。
反省の念と共に引いたや口紅は明るいオレンジで、私は少しだけ元気になった。
義父の手術入院や死でなんとなく暗さに傾く生活を思っていた私の一年も、振り返れば初孫の誕生など明るい話題もあったわけで、決して下を向く日々ばかりではなかったはずだ。
しかし、マスクで顔を隠して会話も減り、外食にいけばパーテーションで仕切られることが日常になった今、自分の気持ちを前向きに保つのは努力も要る。 ほんとうに、そう感じる。
家でのリモート会議だと、カチッとした上着の下はスウェット姿などということも可能で、パジャマスーツなるものまで出てきたそうだが、さすがにそれではだれてしまう気がする。
せめて会議の前には着替えよう。
自分の気持ちの持ち方にかっちりスーツを着せて紅を引き、肩甲骨を下げて胸を張ろう。
山本ふみこさんからひとこと
日常の風景を切りとって描かれました。
猿沢池のカフェでアメリカーノ(ホット)を飲みながら、「お、アオサギ」「鹿だ、鹿だ」とうかれる自分を想像しながら、時を過ごしました(ちょっと騒がしいですね、ごめんなさい)。
見えない糸に引っ張られるように私はそこに腰かけた。
静かな、静かな奈良の朝だ。
こういう表現、美しいなあと、感心しました。
「私」の位置、「、」の打ち方、みなさんも、学んでいただけたらと思います。
通信制 山本ふみこさんのエッセー講座とは
全国どこでも、自宅でエッセーの書き方を学べる通信制エッセー講座。参加者は毎月1回出されるテーマについて書き、講師で随筆家の山本ふみこさんから添削やアドバイスを受けられます。講座の受講期間は半年間。
現在、参加者を募集中です。申込締切は2022年7月4日(月)まで。詳しくは雑誌「ハルメク」7月号の誌上ハルメク旅と講座サイトをご覧ください。
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