「私ね、15のときから女優やってるの」
と語り出した母
――原田さんの母・ヒサ子さんは、10代で戦争を経験。20代でオフセット印刷工の夫と結婚し、パートで働きながら3人の子どもを育てました。中学2年生の原田さんが芸能界を目指したときは「好きなことなら、やりなさい」と応援。俳優業と子育ての両立に奔走する娘を献身的に支えました。
母はぐちぐち文句を言うんじゃなく
「負けるもんか」と
明るく立ち向かってきたんだと思う
3人の子どもたちが巣立ち、ほっとひと息ついた頃、原田さんは徐々に認知症が進んでいく母と向き合うことになります。そして、記憶がうつろいゆく90歳の母を主演女優にして映画を作ることに――。第4回は、原田さんを支え続けた母への思いを伺います。
――原田さんの母・ヒサ子さんは、10代で戦争を経験。20代でオフセット印刷工の夫と結婚し、パートで働きながら3人の子どもを育てました。中学2年生の原田さんが芸能界を目指したときは「好きなことなら、やりなさい」と応援。俳優業と子育ての両立に奔走する娘を献身的に支えました。
昔から「親の心、子知らず」という言葉があるように、私は長い間、母がどういう気持ちで生きているのか、考えたこともありませんでした。子育てと仕事に追われていた30代、40代は、ひたすら走り続けていたから、母と「明日は朝から仕事だから、子どもを見てね」というような会話はしても、深い話をすることはありませんでした。もっと若い頃は、それこそ反抗期で、文句は言うけれど親の話なんて聞かないじゃないですか。
そんな私が、初めて母が考えてきたことを想像する時間を持ったのは、50代の終わり。子どもたちの手がほぼ離れ、やれやれと思っていたとき、認知症で記憶が薄れていく母と向き合うことになったのです。
母に認知症の症状が出てきたのは、父が亡くなってしばらくたった頃。最初のうちはまるで迷子になったかのように不安げでイライラしていて、どうやって手助けしたらいいのかわかりませんでした。次第に一人暮らしが難しくなり、介護施設のお世話になることに。イライラしていた時期を過ぎると、母は心配事も忘れてニコニコして、時々おかしなことを言っては周囲を笑わせるようになりました。
あるとき、母が体調を崩して入院。話もできないような状態が2日ほど続き、3日目くらいに突然、「私ね、15のときから女優をやっているの」と言い出したんです。驚きました。15歳のときから女優をやっているのは、母ではなく、私なのですから。でも、あまりに自然に母がそう言ったので、「違うでしょ」と否定する気持ちにはなりませんでした。