今だから出合えた「年を取ったなりの面白さ」
2023.10.202023年10月20日
【シリーズ|彼女の生き様】原田美枝子#4
認知症になった母の「負けるもんか」に心動かされて
母はぐちぐち文句を言うんじゃなく 「負けるもんか」と 明るく立ち向かってきたんだと思う
「私ね、15のときから女優やってるの」
と語り出した母
――原田さんの母・ヒサ子さんは、10代で戦争を経験。20代でオフセット印刷工の夫と結婚し、パートで働きながら3人の子どもを育てました。中学2年生の原田さんが芸能界を目指したときは「好きなことなら、やりなさい」と応援。俳優業と子育ての両立に奔走する娘を献身的に支えました。
昔から「親の心、子知らず」という言葉があるように、私は長い間、母がどういう気持ちで生きているのか、考えたこともありませんでした。子育てと仕事に追われていた30代、40代は、ひたすら走り続けていたから、母と「明日は朝から仕事だから、子どもを見てね」というような会話はしても、深い話をすることはありませんでした。もっと若い頃は、それこそ反抗期で、文句は言うけれど親の話なんて聞かないじゃないですか。
そんな私が、初めて母が考えてきたことを想像する時間を持ったのは、50代の終わり。子どもたちの手がほぼ離れ、やれやれと思っていたとき、認知症で記憶が薄れていく母と向き合うことになったのです。
母に認知症の症状が出てきたのは、父が亡くなってしばらくたった頃。最初のうちはまるで迷子になったかのように不安げでイライラしてい て、どうやって手助けしたらいいのかわかりませんでした。次第に一人暮らしが難しくなり、介護施設のお世話になることに。イライラしていた時期を過ぎると、母は心配事も忘れてニコニコして、時々おかしなことを言っては周囲を笑わせるようになりました。
あるとき、母が体調を崩して入院。話もできないような状態が2日ほど続き、3日目くらいに突然、「私ね、15のときから女優をやっているの」と言い出したんです。驚きました。15歳のときから女優をやっているのは、母ではなく、私なのですから。でも、あまりに自然に母がそう言ったので、「違うでしょ」と否定する気持ちにはなりませんでした。
幼い頃の原田さんと母・ヒサ子さん(原田さん提供)
母は娘と一心同体のような
気持ちで生きていた
――母の記憶が娘である自分の人生とオーバーラップしていることに驚いた原田さん。あらためて母の人生を振り返ることになります。
母は、千葉県館山市の漁師の家に生まれ、10歳のときにお母さんを亡くしました。母にはきょうだいが9人いたので、きっとお母さんに甘えられた時間はわずかしかなかったはずです。それから戦争が始まり、軍需工場で働くようになった母に、自分のやりたことをする余裕などありませんでした。だから母は、私のやりたいということは無理をしてでも応援してくれたのだと思います。
私が10歳でクラシックバレエをやりたいと言ったときも、生活は大変なのにやらせてくれました。発表会の衣装は全部、母が縫わなきゃいけなくて、私はパートから帰ってきた母に「ねえ、早く作って」といつも言うわけです。母はくたびれ切っているのに、朝までに一生懸命縫ってくれました。
私が仕事を始め、子どもができてからは、どんなに朝早くても、夜遅くても、「この時間にお願い」というと来てくれました。それは大変だったはずですが、きっと母は娘と一心同体のような気持ちで生きて楽しんでくれていたんじゃないかな、と勝手に思っているんです。だから認知症になったとき、我が事のように娘の人生を語り出したのかもしれない――そんなふうに考えるようになりました。
映画「女優・原田ヒサ子」より(原田さん提供)
認知症になった母の妄想を
現実にするために
――記憶がうつろいゆく90歳の母を主演に映画を作ろう、そう考えるヒントになったのは、実家に残された大量の写真を整理した経験でした。
母が施設に入ることになったとき、母のマンションを全部片付けました。そのとき出てきたのが段ボール箱2つ分の写真。1枚ずつ見ていくと、後半の母の写真は、温泉旅行の集合写真や宴会の写真が多くて、きちっと母をとらえた写真は数えるほどしかありませんでした。
だけど、昔の父と母の写真を見ると、写真館で撮ったものがあったりして、変色して傷んでいてもすごくいい写真なんですね。それを厳選して1冊のアルバムにしたら、まるで1本の映画みたいに父と母の人生が見えてきたんです。これなら娘の私が死んでも、孫たちの誰かが持っていてくれるだろうと思いました。
その経験があったので、母が「私、女優をやっているの」と話し始めてしばらくして、“そうだ、母を女優としてデビューさせちゃえばいいんだ”と思いついたんです。妄想の中で母は一生懸命女優として生きている。その母をワンカットでも撮影して公開すれば、妄想が現実になる――そんな乱暴な発想をしたわけです。そして撮影は、母に育ててもらった娘と孫たちでするのが一番意味があると思いました。
目の前にある困難に
「負けるもんか」と立ち向かう
――こうして原田さんが初めてカメラの後ろに立ち、作り上げたのが24分のドキュメンタリー映画「女優原田ヒサ子」。2000年に公開されて大きな反響を呼び、2022年からはNetflixでも配信されています。
突然話し始める母の言葉を漏らさないようにiPhoneで撮影したり、人に教わりながらパソコンの編集作業に初挑戦したり、短い映画ですが、完成までに悪戦苦闘しました。
最後に母の故郷、千葉県館山の海岸で撮影したときのことは忘れられません。その日はすごい突風で、海は大荒れ、砂は舞い上がり、目も開けられない状態。風と波で母の声も聞こえず、とにかく撮影だけして帰りました。
それで後から録音した音声を聞いてみたら、母が風に向かって歩きながら、小さな声で「負けるもんか、負けるもんか」と言っていたことがわかったんです。その声を聴いたとき、ああ、母は目の前の困難に対しては立ち向かっていく人なんだなと、あらためて感じました。きっと母は、10代の頃は戦争に、その後は苦しい生活に、ぐちぐち文句を言うんじゃなく「負けるもんか」って明るく立ち向かってきたんだと思うんですね。
映画が公開された翌年、母は静かに息を引きとりました。人に知られる存在ではないけれど、昭和、平成、令和という時代を一生懸命に生き抜いてきた一人の女性がいたことを、映画を通して知ってもらえたらうれしいです。
――3人の子どもたちが巣立ち、2021年には最愛の母を見送った原田さん。最終回は、60代後半、原田さんが思い描くこれからの生き方をじっくりお聞きします。
取材・文=五十嵐香奈 写真=中西裕人
構成=長倉志乃 スタイリング=坂本久仁子 ヘアメイク=徳田郁子
【シリーズ|彼女の生き様】
原田美枝子《全5回》
原田 美枝子
はらだ みえこ
東京都生まれ。1974年にデビュー以降、映画、ドラマ、舞台で活躍。76年映画「大地の子守歌」「青春の殺人者」でキネマ旬報主演女優賞など9賞を受賞。85年、黒澤明監督「乱」に出演。98年「愛を乞うひと」で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞など受賞多数。近年の出演作に映画「百花」「そして僕は途方に暮れる」、ドラマ「ちむどんどん」「雲霧仁左衛門6」、舞台「誤解」「桜の園」など。自ら制作・撮影・編集・監督を務めたドキュメンタリー映画「女優 原田ヒサ子」が、Netflixにて配信中。
【衣装】ワンピース※店舗限定・シューズ(ファビアナフィリッピ/アオイ 03‐3239‐0341)、ピアス・ネックレス・ブレスレット(シンティランテ/イセタン サローネ東京ミッドタウン)