山中修さん「これでいい」と思える最期の迎え方とは
2021.10.142021年10月06日
28年の会社人生をリセット♪ ~番外編~
100歳の天寿を全うした祖母に想う
「人生100年時代」に背中を押され、51歳で早期退職を決断。そんな私には、今年100歳を迎えた祖母がいました。大正から令和まで、四つの時代を気丈に生き抜いた祖母への想いをつづります。
いつか来る日とわかっていても
2021年9月、楽しみにしていた東京オリンピック&パラリンピック2020の閉幕を見届けるように、鹿児島の祖母が突然旅立ちました。年齢的には大往生だとしても、やっぱり悲しいです。
早めに帰省していた母から祖母逝去の連絡があったとき、仕事もあるので無理しなくていいと言われたものの、私はどうしても祖母にお別れがしたかった……。
全国の緊急事態宣言も解除間近、ワクチン接種も終えていたことから職場に無理を言って休暇をもらい、ほぼ躊躇なく機上の人に。機内の窓越しに、おばあちゃんはこの雲よりずっと上の世界に行ってしまったんだな~と思うと、これ以上はない快晴の空がまぶしく、涙がにじみました。
生きる力にあふれた祖母
大正10年生まれの祖母。昭和、平成、令和と四つの時代を生き抜き、この4月に満100歳を迎えたばかりでした。
若くして結婚、3人の子どもを東京の大学に出し、39年前に夫(私の祖父)を亡くしてからはずっと一人暮らし。子どもたちの帰省や孫・ひ孫が遊びに来ることを楽しみに、90歳過ぎまで一人で炊事も畑仕事もこなす、気丈で生命力にあふれた人でした。
けがで脚力が衰え、94歳で泣く泣く施設に入ったものの、地元の優しい介護士さんたちに恵まれ、すぐに「今が最高に幸せ」と言うのが口癖に。物理的距離やコロナもあり、晩年はほとんど会えないままでしたが、とびぬけて耳のよかった祖母は、携帯でたびたび電話をくれました。
最近まで新聞も毎日読み、世の中の動きに敏感で、よく介護士さんたちを驚かせていたそうです。
別れの儀式を経て想うこと
戦中・戦後の平坦では無い人生を力強く生きた100年。その芯の強さゆえ、嫁である母は若い頃多少苦労もしたようですが……(苦笑)。
実は、祖母の長男である私の父は8年前にガンで他界しています。当時92歳の祖母も、鹿児島から最後のお見舞いに上京しました。長生きすれば、こんなこともあると覚悟していたのか、祖母は冷静でした。父亡き後も泣き言一つ言わず、落ち込む私を電話で励ましてくれたほど。
今になって祖母の心中を思うと、やっと祖父や父のもとに行けてよかったね、と少しホッとしたような、それでいて私の中で父の死が完結してしまったような、複雑な寂しさがつのります。
だからこそ、そんな祖母の最後に立ち会いたかった……。幸い、コロナ禍にも関わらず、大好きだったたくさんのお花と共ににぎやかに、無事祖母を送ることができました。
こうして改めて人の死に向き合うことで感じたのは、自分が生かされている側であること、今の自分があることへの周囲への感謝です。祖母の生きた100歳まで、私はあと47年。そこまで長生きできないとしても、忙しない日常に流されることなく、今をもっと丁寧に生きなければ申し訳ない……。
祖母の自宅に戻り、そう思って見上げた空。子どもの頃、たくさんの親せきと祖父母の家で過ごしたにぎやかな夏休みにも想いをはせます。
これも祖母が与えてくれたセンチメンタル・ジャーニー。おばあちゃん、長い間本当にありがとう。
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