40歳のデビュー、
家族3人生きるために
33歳で帰国した後は、家族3人食べていくために、英語や歌を教えたり、給食のおばちゃんをしたり、そりゃもういろんな仕事をしました。声が掛かればライブハウスで歌ったりもしてね。
プレッシャーはありますよ。
怖いし、緊張もするし。
必死でしたね。
でも、がんばらな
絶妙なトークにパワフルな演奏と歌声で人々を魅了し続けるジャズシンガーの綾戸智恵さん。第2回は、40歳でCDデビュー。ジャズシンガーとして、全国各地で公演し、激動の日々を過ごしてきた綾戸さんが、これまで25年歩み続けられた理由とは?
写真=事務所提供
33歳で帰国した後は、家族3人食べていくために、英語や歌を教えたり、給食のおばちゃんをしたり、そりゃもういろんな仕事をしました。声が掛かればライブハウスで歌ったりもしてね。
ライブハウスで歌うと、“チーボー(当時の通称)が出るとお客さんが喜ぶわ”ってオーナーにもかわいがってもらってました。それでも当時は歌一本でやっていけるなんて思ってもいませんでした。
それがある日、野外のイベントで歌ったら、偉い人に“すごいね、うまいね”ってたくさん言われてね。「歌いませんか」というお誘いを受けて、CDデビューしたのが40歳のとき。
40代はあっちへこっちへと連れられるように全国を回って、たくさんライブやら仕事をしました。仕事先に行ったら、テレビや新聞で見たことのある人がいっぱいいてね。「握手してください」と向こうから言われたときは、びっくりしました。へー、面白いなぁと、新しい学校に入ったみたいでした。
あの頃、私自身は別に「すごく歌いたい!」と思っていたわけではないんです。「やりませんか」と誘ってもらって「ギャラももらえてええな、ほんならやってみようか」――そんな感じでした。
当時は息子が7歳くらいで、“お母さん”をしていましたから。お母さんであることを手放してまで、歌の仕事をやる気はなかったんです。だから、会社の社長にもはっきり言ってました。「子どもがおるねんで。絶対に“家中心”でないと歌わんで。今の暮らしを崩さないのが条件や」と。契約書を交わすこともしませんでした。契約をして自由を奪われたら、親の死に目にも会われへん、そんなふうに思っていたんです。笑えるでしょう?
しばらくは神戸で暮らしながら、全国各地の公演に出向いていました。あんなに新幹線に乗ったのは人生で初めて。夜行バスもよく使いました。夜遅くバスに乗ったら、早朝には神戸に着くでしょ。そうしたら息子に会えるし、幼稚園のお弁当もつくってあげられるからね。
そういう生活を続けているうちに、オーチャードホールのコンサートでアンコールの拍手を浴びて、追加公演が決まって、紅白歌合戦にも呼ばれたりして、ああ、これはすごいことになったんかな、と。