“死んだらあかん”を守り続けて――64歳の独り立ち
2023.10.282023年10月28日
【シリーズ|彼女の生き様】綾戸智恵#3
努力も経験も苦難もすべて「世間様のおかげ」
生きることは苦だらけで ええことは一瞬。 だけど、その一瞬の積み重ねが 50代になったときに物を言うんです
目標に向かって邁進するのと、
努力は違う
私はね、努力というものは、自分ひとりではできない。一緒にいる人、共に歩く人がそれをさせてくれる。そういう人たち、いわば“世間様”がさせてくれたと思っています。
デビュー後2年目には、オーチャードホールで3日間ライブして、さらにアンコールで追加公演までさせてもらって、紅白歌合戦にも出させてもらって……というと、才能があるからとか努力したんやねとか言う人がたくさんいますが、私はそんな大したもんではありませんよ。人生を切り開こうと思ったことも、成功するために努力したことも、一度もない。
世の中には悪い人間もいっぱいいるんですけど、それでもやっぱり、人生が動いていくのは家族や友人、そして世間様のおかげなんやないかと思っています。
私は子どもの頃、朝なかなか起きられない子どもでした。でも息子ができて自然と起きられるようになって、朝ご飯もつくるし、お弁当もつくるようになりました。夜も、一度寝たら朝まで絶対起きない子どもだったのに、母の介護をするようになって、母が「痛い!」と言ったら誰に起こされなくてもすぐに起きるように なりました。
息子のおかげ、母のおかげですわ。
息子がいるから、ゴミ出しするときも人様に笑われるような格好じゃ外に出られないし、変な男と引っ付くこともできない。親不孝したくないから、母がつらそうにしてたら放っておかれない。
私の場合はね「これになりたいなー」でがんばるのは、努力とは言わんのではないかと思っています。それは、やりたいと思うことに“邁進”しているだけ。つらいこと、いやなことでもがんばれるのが、“努力”じゃないでしょうか。そういう努力ができるのは、そうさせる人がいるからです。
いいことも、悪いことも
言ってくれるのが「世間様」
人生の半分以上はつらいことばっかりで、ええことなんか一瞬、ピッと光るだけです。ダーッと嫌な時間がたくさんあって、だから余計に楽しいことがピッと光るんですよね。
けれどつらいことばかりでも、なんで我慢して生きられるのかと言ったら、それは自分ひとりじゃないから。世のはざまにいるからじゃないかなぁ。それが“世間”というものなんでしょうね。
世間並みになるというのは、“世間の波”に乗るということ。世間というものと付き合う、人間というものと付き合うのは、それが血縁であってもなくても、人様に教えてもらうことだらけです。もしひとりぼっちだったら、すでに諦めていること、やめてしまったこと、たくさんあると思いますよ。
この「世間様のおかげ」という考え方は、昔から母に言い聞かせられてきたことです。
子どもの頃、母に言われました。一人で駆けっこしても7秒しか出ないが、二人で走ったら6秒なんぼになる。相手のおかげや。相手のおかげで自分の記録が出るんや。“世間様”のおかげや、と。
こんなこともありました。小学生のときに国語の先生にいじめられたんです。何か私に気に食わない部分があったんでしょうね。母に話したら、「先生にいじめられた? あんた、大したもんやね。50も過ぎたおっさんにいじめられるいうのは、なんぞ、あんたの方が先生より上まってることあるんちゃうか」と言うんです。
けど国語にかけて先生はプロフェッショナルや、その先生から国語だけはしっかり吸収してきなさい、先生のおかげで国語ができるようになりなさい。それが先生への“お返し”やと。私、その通りにしました。卒業するときには、一番仲のいい先生になっていました。
人様はいろいろ言ってくれます。「綾戸さん、お若いですね」と言う人もいれば、「ばばあになったな」と言ってくれる人もいます。いろいろご意見をいただけます。これが世間様のええところですわ。
自分が歩んできた足元に、
自分が輝く場所がある
母からは小学生のとき、こんなことも言われました。「人間、おぎゃあと生まれたら、今度待っている“大仕事”は死ぬことや」と。
「生まれたら、いつかは死ななあかん。それまでの間、ボーっと待ってるか、いろんなことをして死ぬか、それしかないんやからな。生きることは苦だらけで、ええことは一瞬やけど、その一瞬の積み重ねが40歳、50歳となったときに物を言うてくる。だから宿題も嫌やろうけど、なるべく一生懸命やりなさい。命落とさんように、がんばんなさい」と。
ほんまですわ。いいことも、そうでないことも全部、“経験”になります。いろんな経験が体にしみついて、その経験を使えるようになります。みなさんにも自分の中にいろんな経験、あるんじゃないでしょうか。自分の親、子ども、亭主、友人、同僚……いろんな世間様との間につくった時間が。
あそこでいい目に会えたな、ここで失敗したな、いじめられたな、という昨日までの過去があります。自分の足元を掘ってみたら、そういう経験がたくさん出てきますよ。そこを掘り出してみて、明日何をするか決めたらいいんじゃないでしょうか。
私はそれをしないで、今までよその穴ばっかり掘っていました。あっちの穴の方が何かええもんが出てくるんやないか、と。でも、この年になってようやくね、それこそ自分が立っているところを掘ってみたんです。すると出てきたんです、“光っている私”が。
「ようがんばったなー」「出し切ったなー」と思える自分が、ね。他所(よそ)じゃない、光る私は自分の足元にあったことにやっと気が付いたんです。母には「他所の穴ばかり掘ったら、あかんで」と言われていましたが、そのことがようやくわかりました。
ここまで来られたのは、世間様のおかげ、経験のおかげ。本当にそう思っています。
この“がんばる”の意味を改めて考えさせられたのが、母の介護です。デビューして6年目、47歳のとき、突然、母の介護が始まりました。娘の私ががんばらな、と邁進する私の目を覚ましてくれたのも、また「世間様」でした。
取材・文=佐田節子 写真=中西裕人
ヘアメイク=赤間直幸(Koa Hole inc.) 構成=長倉志乃(ハルメクWEB)
撮影協力:カフェレストランShu(http://cafe-shu.com/)
【シリーズ|彼女の生き様】
綾戸智恵《全5回》
綾戸 智恵
あやど ちえ
1957(昭和32)、大阪府生まれ。ジャズシンガー。17歳で単身渡米、91年帰国。98年、40歳のと きにアルバム「For All We Know」でデビュー。2003年に紅白歌合戦に初出場し「テネシー・ワルツ」が話題になる。笑いあふれるトークと個性的なステージで、ジャズファンのみならず多くの老若男女を魅了し続けている。最新アルバムは「Hana Uta」。24年1月30日、東京すみだトリフォニーホールでLIVE決定。https://www.chie-ayado.com/