“死んだらあかん”を守り続けて――64歳の独り立ち
2023.10.282023年10月28日
【シリーズ|彼女の生き様】綾戸智恵#4
母の介護で教わった「頼ること」も「がんばること」
母を看取ったとき、やっと 子どもとして一つ前に行けたかな、 こんなもんでよろしいか?と 申し訳が立ったような気がしました
47歳で介護生活に。
気付かぬうちに心に限界が
――デビューして6年目、綾戸智恵さんがジャズシンガーとして過密スケジュールで忙しい日々を過ごしていた2004年。二人三脚で歩んできた母が脳梗塞で倒れます。15年にわたる介護生活の始まりでした。
47歳のとき、母の介護が始まりました。脳梗塞を起こして右半身麻痺になり、リハビリを続けてなんとか自力で歩けるようになってたのですが、事故で転倒して大腿骨を骨折してね。それをきっかけに認知症が進んでいったんです。
私は小柄で体重も40キロないのに、母は長身で60キロ以上もあったので、車椅子を押すだけでも息切れしてしまって……。母を背負っていて、疲労骨折したこともありました。私も50代に差し掛かってますからね、「これが世にいう、老老介護か」なんて実感しました。
2008年に歌手デビュー10周年記念の全国ツアーをしたときは、母を連れて各地を回りました。当時は介護施設についてよくわかっていなくてね、どこかに預けるとか、そういう発想自体がなかったんです。
ライブで私が歌っている間は、楽屋でスタッフが母を見てくれて、ステージ とは関係ないことまで一緒にやってくれて。あのツアーができたのは事務所やスタッフのみなさんのおかげなんです。ほんま、当時のみんなには感謝の気持ちしかありません。
50歳のときにはコンサート活動を休止し、母の介護に専念することにしました。朝は8時前に起きて、午後12時前に寝かせるまで付きっきり。あの頃は服を着るにも、洗濯機から物干し竿、物干し竿から取って着るという感じでね。何を着ようという気もなく、箪笥から服を出すこともなく、「あ、乾いたから、これ着よ」というような毎日で……。心が自分の体よりも重たくなっていきました。
介護士さんに教わった、
頼ることも“がんばる”こと
そういう暮しが2年ほど続いた頃、お世話になっていたデイサービスの介護士さんが、「お母さんがお泊りできるショートステイを使ったら、綾戸さん、お仕事に行けますよ」と教えてくれたんです。
どうしようかと迷っていたら、母が「歌いに行っといで」「たまには化粧もし」と。認知症といっても、“まだら”やから、ちゃんとわかっていることも多かったんです。「毎日毎日、重たい私を運んでくれて、面倒みてくれて」と思っていたと思います。私を見て、母も切なかったんやろね。
それでジャズミュージシャンの原信夫さんの45周年コンサートに出させてもらいました。久しぶりに歌ったら、スカッとしましたね。家に帰って「気ぃ、晴れたわ」と母に言ったら、「たまには行き」と言ってくれました。
綾戸さんと母(写真=事務所提供)
――そうして活動再開した綾戸さんは、仕事、子育て、お母さんの介護を全部しようと奮闘。しかし無理がたたってか、2010年3月、倒れて緊急搬送されます。
倒れたとき、息子に「おばあちゃんとお母さんとでは終着駅は違う。一緒に行かないでよ。あっそれから、おばあちゃんを置いても行かないでよ。頼むから」と言われて、目が覚めました。
私は母の介護は全部自分でせなあかんと思っていて、それでがんばり過ぎて自分を追いつめてしまったところがあったと思うんです。これと決めたら集中できるのが私の長所でもあるし、今までそれでいろんなことを乗り切ってきたけれど、介護では逆効果でしたね。
母の介護を通して人の力を借りることがいかに大事か、教えられました。母についた介護士さんが本当によくしてくれたんです。「私たちにはこれこれができます。でも、娘さんにしかできないこともあります」と言ってね。
確かに、介護士さんはご飯を上手に食べさせてくれますが、ご飯がおいしくなくても「おいしい」と母が言うのは、私と一緒に食べているときだけ。介護士さんは介護のプロやけど、私の代わりじゃない。娘の仕事と介護士さんの仕事は分担して、頼るところは頼ろうと思うようになりました。
母が安心して過ごせる施設を調べたり、介護士さんから調理や洗濯のやり方を学んだり、質問攻めにしてしまったこともあったけれど、とにかく調べて聞いてね。介護士さんだけじゃなく、本当にいろんな人に助けてもらいました。
そんなこんなで母の介護は15年以上続きました。
母の最期の言葉は
「もうええか」と聞こえた
――2021年1月、コロナ禍、綾戸さんは自宅で母を看取りました。母94歳、綾戸さん64歳でした。
最後の方は施設に預けて、私が会いに行ってたんですが、コロナの感染拡大が始まってね。このままでは家には帰ってこれんかもしれん、もう会えんかもしれんと思っていたんですが、仲良くしていた介護士さんが最後に家に帰れるよう、コロナの隙を見て必死にタイミングを探してくれたんです。
そうして2021年の1月、正月明けて寒い寒い日に「今日です!今日だったら帰れますよ」と。で、迎えに行って、家に連れて帰ってきたんです。家でご飯食べて、ウイスキー飲んで、一緒に歌って。うれしそうやったな。目で追いかけるんですよ、私のことを。
最期の日は普通にお風呂に入ってね、コッコッコッと舌鼓を鳴らして。いつもうれしいときに、そういう音を出すんです。ご飯は食べないと言うから、「お酒は?」と聞くと「飲む」と。それでモルトウイスキーをちょっと飲ませて。私の腕の中に抱いて一生懸命、歌を歌って。
で、「もう飲めんか?」と聞いたら、母が言ったんです。「もうええか」と。酒がもうええのか、生きていることがもうええのか、わからんけど、どっちにしてもノーサンキューだと。
そこから息を吸わんようなって、ハーハーハーと3回くらい息を吐き、最期に一声、返事のように「あ」と言って、笑いました。「よう大きなりはりました」。そう言われたような気がしました。
息子を呼んで「おばあちゃん、逝きはった」と伝えたら、息子が私の背中をさすってくれてね。「ああ、送ったなあ、ひとり立ちしたんやなあ」と思いながら、母の耳元で聞きました。「私、どないでっしゃろ」と。こんな娘やけど、置いていけるくらい大丈夫ですか?という気持ちでね。もう何も返事はせんかったんで、まあ、ええんやろうなと思いました。
お葬式は家族と身近な人の4人でね、リモートでお坊さんにお経をあげてもらいました。お棺の中にフカヒレ、酒、上海ガニと、母の好きな食べ物を入れてね。「これ、食べながら行きなはれ」と。
私はひんしゅく買うくらい、ずっと笑顔でした。なんでかわからんけど、「ああ、これでもう、お母ちゃん、痛いと言わんですむな」という気持ちもあったし、「ちゃんと亡くなりはった」と納得もしていたからかもしれない。「子どもとして一つ前に行けたかな、こんなもんでよろしいか?」という感じで。母に対して申し訳が立ったと。今思うと、最後の何日間は私の納得のために生きててくれたのかも、そうも思います。
実は私、母を看取った後、長い間ずっと泣けなかったんです。やっと泣けたのは――。
取材・文=佐田節子 写真=中西裕人
ヘアメイク=赤間直幸(Koa Hole inc.) 構成=長倉志乃(ハルメクWEB)
撮影協力:カフェレストランShu(http://cafe-shu.com/)
【シリーズ|彼女の生き様】
綾戸智恵《全5回》
綾戸 智恵
あやど ちえ
1957(昭和32)、大阪府生まれ。ジャズシンガー。17歳で単身渡米、91年帰国。98年、40歳のと きにアルバム「For All We Know」でデビュー。2003年に紅白歌合戦に初出場し「テネシー・ワルツ」が話題になる。笑いあふれるトークと個性的なステージで、ジャズファンのみならず多くの老 若男女を魅了し続けている。最新アルバムは「Hana Uta」。24年1月30日、東京すみだトリフォ ニーホールでLIVE決定。https://www.chie-ayado.com/