「老い」を実感―慌てず騒がず受け止めて―

自宅の町の「母親大会」で本音トーク

公開日:2023.12.14

2023年11月30日待ちに待った日がやって来ました。「急性腎盂腎炎」による救急搬送から始まった4か月にわたる尿管ステント留置から解放される日です。が、ステントを取って6時間後、40度の発熱・悪寒・嘔吐で緊急入院となってしまったのでした。

自宅の町の「母親大会」で本音トーク
小さな玄関先は夫の手によって例年通りの12月の設えに

予定どおりに事は進んだけれど!!

予定どおりに事は進んだけれど!!
*イメージ  待っていたのはどんでん返しの結末

受付を済ませていつものようにレントゲンを撮ると泌尿器科の外来へ。しばらくすると診察室ではなく「処置室」から呼び出しが。鳩に豆鉄砲状態の私に技師さんが「今日はステントを取るって聞いておられますね」「ハイ」。

準備がすっかり整うと先生が来られ、その日撮ったレントゲンを見るなり「アレッ、まだ石が残っていますね。もう少しステントを置いておきますか、それともやっぱり取ってしまいますか?」(それ、私に振る?)と内心思いながらも、「もう抜いて下さい」と、答えました。

尿意のコントロールの難しさと、「砕けた砂のような物が出ているか?」と便器をのぞき込む毎日のストレスにこれ以上耐えられないと思ったからです。再入院にまで巻き戻しになろうとは予想だにせず。

6時間後、夫の運転で病院に引き返し、ステントを再挿入し、8日間の入院生活を経て2日前に終の棲家へ退院してきました。

自宅の町の「母親大会」で本音トーク

「ステントを抜くのは11月30日にしましょう」と告げられてから1か月余の長い期間、私は多くの人たちの助けを借りて「本気の気分転換」を図る一方で、福島からの「難民」青田惠子さんと共に「本音トーク」の準備に勤しんでもいました。自宅がある町の「母親大会」でのトークショーに招かれていたからです。

「母親大会」とは、1954年アメリカによるビキニ環礁での水爆実験により、多くの日本の漁船・漁民が被爆したことを契機に、核兵器廃絶の運動が世界に広がり、1955年には第1回世界母親大会・日本母親大会が開かれ、今では、各都道府県・市町村・所によっては学区毎に大小さまざまな形での大会が開かれるようになったものです。

そのスローガンは世界共通、一貫して「いのちを生みだす母親は いのちを育て いのちを守ることをのぞみます」です。

自宅の町の「母親大会」で本音トーク
震災後12年経っても癒えることのない心の傷
自宅の町の「母親大会」で本音トーク
あの日以来離ればなれになった叔父さんの目には幸せだった頃のこんな風景が見えていたのかもしれない

自宅の町の「母親大会」で本音トーク

当日は、青田さんの布絵を背景に映し出しながら私が青田さんの詩を朗読し、その詩にまつわる青田さんの体験を話して頂くという形で進められました。青田さんにとっても私にとっても初めての経験でした。

自宅の町の「母親大会」で本音トーク
発声もままならない私はアクセント辞典でチェックしながら練習を重ねた

3日後実行委員の方が参加者の感想文を持って訪ねてくれました。

前略――「本音トーク」、聞き入りました。harumatiさんが研ぎ澄まされた感性で作品を深く掘り下げて青田さんに問いかけられる。それを受けて青田さんは人の生き様や、人との心の触れ合いをシンプルに分かりやすく語られました。二人のトークは心にズキンときてとてもステキでした。――後略

最後にみんなで『折り鶴』(梅原 司平 作詞・作曲)を歌ってその日の集いを終わりました。

老いの成長―慌てず騒がず受け止めながら―

この苦しかった1か月間、貴重な体験をさせて頂いて多くのことを学ぶことができました。起きてしまったつらいことや苦しいことは慌てず騒がず受け止めながら、夢中になれることを続けていけること、それが老いると言う名の成長ではないかと。

■もっと知りたい■

harumati

45歳~66歳までC型肝炎と共生。2016年奇蹟とも思える完治から、今度は脳出血に襲われ右半身麻痺の大きな後遺症が残り身体障害者に。同居する息子と夫に家事を任せての暮らしにピリオドを打ち、2021年11月「介護付き有料老人ホーム」に夫と入居。「小さな暮らし」で「豊かな生活」を創り出そうと模索中です。

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