菊池和子さんの生い立ちをさかのぼる

創始者・菊池和子さんが語る、きくち体操を始めた理由

公開日:2019/12/10

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85歳とは思えない身のこなしと美しさで、話題沸騰中のきくち体操創始者・菊池和子さん。雑誌「ハルメク」で10年にわたり私たちの命そのものである体のつくられ方と、その生かし方を教えてきてくれました。ここに至るまでの人生の道のりを聞きました。

きくち体操教室

幼少期に、右手を大やけどした菊池和子さん

命を育む体操として知られている「きくち体操」。創始者である菊池和子さんに、どうしてこのような体操を始めるに至ったのかを伺うと、菊池さんの生い立ちにまでさかのぼることになりました。1934(昭和9)年、秋田県角館(かくのだて)が物語の始まりです。国鉄職員の父と元看護婦の母の次女として生まれたといいます。

母は当時としては珍しく働く女性でした。母方の祖母はとても先進的で、秋田県で女性議員第一号となったほどの人でしたから、母を含め娘たちを自立した女性になれるように教育したのです。

私は2歳のときに囲炉裏に落ちて両手、特に右手を大やけどして、かなり不自由になりました。腕から指先まで肌はケロイド状で爪は真っ黒。特に親指と人差し指は感覚もなく、動かすこともできませんでした。しかし、物心ついたときからそういう手だったので、私はそれを苦にしたり恥ずかしいと思ったことがありませんでした。お箸も鉛筆もうまく持てなかったので自分で工夫していくことを覚えました。両親には大事に育てていただいた記憶が強く残っています。

その記憶が私に、どんな逆境でもいつも自信を持って生きていける強さをくれたのだと思います。

6歳のとき、第二次世界大戦が勃発し、父は南方戦線に出征しました。それから間もなく弟が誕生しますが、母は病気で、私が7歳のときに亡くなりました。亡くなるとき、母は祖母に「娘たちを、自立して生きていけるように必ず大学まで行かせてください」と言い残したそうです。当時は女学校に行く人も少ない時代でした。

自立した精神を持つように育てられた青年期

空いた時間を見つけては、一人で体を動かす菊池さん。「『奇跡の84歳』と言われるけど、なんにも奇跡じゃないのよ。とにかく動かし続けるだけ」

 


小学校4年生のときに父が奇跡的に帰還。間もなく父は子どもたちのためにと再婚し、菊池さんは祖母の家を出て新しい家族と暮らすことになりました。

継母は、父には内緒で私と弟を呼び正座をさせて向かい合い、「私はあなたたちのお母さんになるために来たのではなくて、お父さんのお嫁さんに来たんです」と言いました。

思えば大人が10歳と6歳の子どもに言う言葉ではないような気もしますが、私は子ども心に「そうよ。あなたは私のお母さんではないもの」と思って、「はい」と答えました。

中学で卓球に出合い、練習に練習を重ね、高校生のときは秋田県代表として国体にも出場するほどになりました。父に応援してもらったことはありましたが、継母は関心がなかったと思います。でも、不思議と私は自分が不幸せと感じたことはありませんでした。戦後、孤児になった人たちもたくさんいた中で、私はひもじい思いもせず、学校にも行かせてもらえました。そういう環境だったからこそ、私は、自分の道をどう進んでいけばいいのか、自分なりに考えて、決定して、行動できるようになったのだと思います。

公立中学校の体育教師時代に抱いた、体育教育への違和感

日本女子体育短期大学の道を選んだのは、高校の体育教師の勧めでした。菊池さんは18歳で上京し、大学寮で学生生活を送ります。

普通、体育大学を卒業すれば地元の学校で体育教師になるものでしたが、私は地元に戻る気はありませんでした。卓球の成績を買われ、ある企業から勧誘の話があったのです。憧れの東京のOLになったわけですが、私は本当に事務仕事が苦手。夜は卓球の厳しい練習、試合で成績を求められるプレッシャーも強く、結局1年で退職しました。

やっぱり教師になろう、とあらためて東京都の試験を受け、公立中学校の教師になりました。事務職の後ということもあり、教師という仕事がなんと楽しかったことか! 相手は数字や書類ではなく、生きている子どもたち。みんな生きていて、反応してくれて、毎日一緒に成長していける。こんな喜びのある仕事ってないわ、と心から思いました。

でも体育教育に疑問を持ったのもこの頃です。走るのが速い子には「5」、一生懸命がんばっても遅い子は「1」の評価、ということに納得がいかず、みんなに「3」をつけたら、校長先生に呼び出されてしまいました(笑)。本来体育は「体」をよりよく「育てる」ための教育です。自分の体は自分の命だということも教えずに、技術だけを教えるのはおかしい。だから、今現在も自分の体をよくわかっていない大人がたくさんいるのだと思います。

きくち体操を始めたきっかけは、母親仲間

「体操する奥さんたちの表情は、本当にいきいきとしていました」と思い出す菊池さん。
「体操する奥さんたちの表情は、本当にいきいきとしていました」と思い出す菊池さん

結婚後は神奈川県の団地に引っ越し、長男を出産します。4年ほどワーキングマザーとしてがんばり、第2子出産を機に退職。でも母親仲間から「体操を教えて」と請われ、団地の集会所で体操を教えるようになります。

当時は、家庭の主婦が家族のためではなく、自分のために時間を使うことに対して罪悪感がありました。ですから、集会所のカーテンを閉め切ってこっそり始めたんです(笑)。

「こう動くのよ!」と言うと、子どもなら素直に動いてくれますが、大人はそうはいきません。「どうして?」「なんでそんなふうに動かすといいの?」と質問攻め。みんな向学心があって好奇心が強かった。私もきちんと答えたいので、書店で医学書を取り寄せて体の仕組みを一生懸命勉強しました。今のように、簡単に書かれた本はありませんでしたから、それはもう大変なことでした。筋肉図や骨格図はこの頃からの私の愛読書です。そうして腹筋がどれほど要になっているか、足の指の筋肉がどんなふうにひざへとつながっているか、などをみんなに伝えたのです。

私はモダンダンスもやっていましたから、足の裏、特に足の指をしっかり使わないと、体を支えられないことがよくわかっていました。しかも相当、脳をフル回転して「意識」しないとできないことも。でも、これを奥さんたちにわかってもらえるように伝えるのは大変でした。足の指1本1本を意識するにはどうすればいいか。いろいろ自分の体で実験してみて、手の指と足の指で握手をするのが一番感じ取りやすいと気付いて、みんなにも手足の指で握手してもらいました。

「足の裏を手で触るなんて汚い!」とやめていく方もいましたが、足の指の感覚がはっきりしたおかげで、「階段の上り下りが楽になった!」とか「お風呂場で滑らなくなった」といった感想を話してくれる人が次々現れたのです。当時は、一般の人たちに病気や体についての情報はほとんどありませんでした。それは、医者のものだと言われたのです。そんな時代でしたから私の説明する体の仕組みを聞いて体を動かすと、動かした分だけ、自分の体に変化が起こることが新鮮で感動的なことでした。

そういう声を聞いて私も、じゃあ今度はこういう動きをしてみようと新しい動きを体の仕組みに添ってつくり出していきました。そうやって基本の動きができてきたのです。私が考え出した動きを生徒に教えると同時に、生徒一人一人の体から私もたくさんのことを学んでいったのです。

 

菊池和子(きくち・かずこ)さんのプロフィール

1934(昭和9)年生まれ。日本女子体育短期大学卒業。体育教師を経て「きくち体操」を創始し、以来50年以上、毎日の授業、ラジオ、テレビ、講演などを通して指導にあたる。神奈川・東京に直営教室を持つ。「きくち体操」の教室は東京・大阪・名古屋などのカルチャーセンターでも開かれている。『「意識」と「動き」で若く、美しく! きくち体操』『立ち方を変えるだけで「老いない体」DVD付き』(ともにハルメク刊)など著書多数。

 

取材・文=岡島文乃、井口桂介(ともにハルメク編集部)、 撮影=鍋島徳恭 ※この記事は、「ハルメク」2019年2月号に掲載した記事を再編集しています。
 


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