ヒロシマの夏

語り部さんから被爆体験のお話を聞きました

公開日:2021.07.22

更新日:2021.07.19

人生100年時代を迎え、「美鈴カレッジ」を立ち上げたのは2019年の暮れ間近の頃でした。「まだまだ・これから」と、後期人生を充実させるため、皆で模索しながらがんばっています。

語り部さんから被爆体験のお話を聞きました
熱い熱いと水を求めてやまなかった犠牲者のために、いつも満々と水をたたえています

怖くて悲しい被爆の話

広島に住んでいる人の多くは、親族からの話、小中学校での平和学習、テレビ・新聞などで被爆当時の様子について多少の知識を得ておりますが、語り部さんから直接お話を聞くことはあまりなかったようです。

そこで、今回(2021年7月12日)の「美鈴カレッジ(人生後半の生き方をテーマに、ごきげんな老活と題し、生き生きとした人生を送るヒントやきっかけづくりの場)」では、8月6日を迎える前に、原爆資料館の語り部さんからお話を聞くことにしました。

怖くて悲しい被爆の話
原爆資料館を訪れた子どもたち、修学旅行のメッカです

原爆投下

原爆投下
児童や生徒のための冊子の表紙。三輪車と弁当箱は史料館の展示物になっています。
左:爆心地から1500m離れた場所で、幼いお子さんが被爆したときの三輪車
右:爆心地から600m離れた場所で、建物疎開の作業中に被爆した中学生の弁当箱

広島に「ピカドン」が落とされた、と小学生の頃、生まれ故郷の北陸で聞いた記憶があります。空でピカッと光ってとてつもない爆音をともなったので「ピカドン」と当時言ったのだそうです。爆風は台風の10倍位(秒速100m)、熱線による地表温度は3000〜4000度だったようです。

語り部の小泉喜代子さん

語り部の小泉喜代子さん
語り部の小泉さん

今回お話を伺った語り部の小泉さんは、2歳で被爆しました。平成11年より被爆証言活動をしています。

「黙っているだけではいけない。広島に落とされて3日後に、長崎に落とされた。3回目に落とされる都市を作ってはいけない」と訴えておられます。今年(2021年)の8月6日の平和記念式典では、被爆者代表として献花をされることになっています。

松原美代子さんの体験を継承

小泉さんは、原爆投下の状況説明に加え、松原美代子さんの被爆体験を話して下さいました。松原さんは被爆体験の証言者の先駆けのような人で、日本国内外で広く活動されたことで知られています。昭和の時代にTVでよく拝見していました。

「勤労動員に出向く途中に”ピカドン”にあって倒れ、何時間後かに気づくと両手がグローブのように腫れ、胸のあたりに布が少し残っている状態だった。腕は肉がはずれ、血が出て骨が見えた。何度も転びながら学校に戻る途中、人々のうめき声を聞き、川の中に生死不明の人が筏のように並んで浮いていた」そうです。

12歳で被爆した松原さんは、顔や腕などにかなりのケロイドを負い、10数回の整形手術を受けました。被爆の悲惨さを身をもって、世界に訴え、問い続けたのです。「人間は忘れやすいから伝えんといけんのよ」が口ぐせだったとか。

松原美代子さんの体験を継承

小泉さんのお話を伺いながら、松原さんの不屈の精神に感服すると同時に、「ピカドン」による怖くて悲しい光景に言葉をのみ、平和のありがたさを噛みしめました。

 

■もっと知りたい■

とし古

祖母は60歳の頃、針仕事や寺参りを日課にしていました。母は70歳の頃不自由な体で家族のために働き趣味の書道教室にも通っていました。そして私はいま八十路を歩いています。体力・知力は衰えを感じますが考える事・感じる事は昔と変わらないと思っています。死ぬまでにやっておきたい事に色々チャレンジしたいです。

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