知っておくと介護者の心がラクになる「認知症患者の脳の働き方」とは
2025.03.13
更新日:2025年03月06日 公開日:2025年02月17日
8年間、母を介護した脳科学者・恩蔵絢子さん#1
母が認知症と診断された日、ごまかし合っていた家族が前向きになれた
脳科学者の恩蔵絢子(おんぞう・あやこ)さんは、2023年5月、認知症のため8年間介護してきた母・恵子(けいこ)さんを亡くしました。娘として、脳科学者として母と向き合ってきた恩蔵さん。家族としての心の揺れと、脳科学から見た認知症について伺いました。全3回でお届けします。
恩蔵絢子さんのプロフィール

おんぞう・あやこ
1979(昭和54)年神奈川県生まれ。脳科学者。2007年東京工業大学大学院総合理工学研究科知能システム科学専攻博士課程を修了、学術博士。専門は自意識と感情。母親が認知症になったことをきっかけに、生活の中で見られる症状を記録し脳科学者として分析した『脳科学者の母が、認知症になる』(河出書房新社刊)を18年に出版。近著に『なぜ、認知症の人は家に帰りたがるのか』(中央法規出版刊)など。
脳科学者として母と向き合い見えたこと
母に認知症の症状が現れてから、母が私の知っている母ではなくなってしまうのではないかということがずっと不安でした。
結論から言うと、さまざまなことができなくなってしまっても、やさしい母の母らしさというものはずっと変わらずに残っていることに気付けました。嫌なこともつらいこともたくさんありましたが、自分には見えていなかった母の母らしさに出合えた8年でした。
今、本当に母が恋しいです。母に会いたい。これほど母と深く過ごした時間はそれ以前にはなかったと思います。亡くなって半年ほどの今はまだ、認知症になってからの母のイメージが強いですが、それ以前の母のことを必死で思い出そうとしています。何か一つでも取り戻せたらうれしい、そんな毎日を過ごしています。
母が認知症になる前から、私は脳科学者として感情を専門に脳の研究をしてきました。一人の娘として、そして脳科学者として母と向き合い、見えてきたことをお話ししたいと思います。
認めたくなくて、ごまかし合い
母は、毎日家族のために料理を工夫し、部屋をきれいに整え、送り迎えをしてくれ、悩み事を抱えていれば声を掛けてくれる。音楽教室でピアノを教え、趣味の合唱を楽しみ、家事も仕事も完璧にこなしている人でした。

そんな母に認知症らしき症状が現れたのは、2014年、母が64歳のときです。初めは後頭部をぽりぽりと掻くしぐさに気付きました。野菜の切り方を間違えたり、話したことを覚えていないことが増え、次第に料理も掃除もしなくなりました。笑顔も消え、ぼんやりと居間に腰掛け、過去と現在をまぜこぜに話す。
私は当初「ママ、しっかりしてよ!」と母らしくない行動を責めていました。
誰でも年をとれば、いろいろなことを思い出しにくくなるし、若い人のように行動できないことは増えます。母の症状に対し「普通の健康な人の老化だよ、病気じゃないよ」「おかしいことなんて何も起こっていないよ」と、父も兄も私も家族のみなが、ごまかしごまかし、毎日を過ごしていました。
むしろ、「おかしな振る舞いをしないでね」というような圧を母にかけていたと思います。
認知症には進行を遅くする薬はあっても、治す薬はありません。そして認知症という言葉につきまとうイメージはつらいものばかり。治す方法がなく、悪くなるだけなら「認知症」と決まらない方がいいとも思っていました。
そんなとき研究者仲間から「治療法がないのはやれることがないということではない」という言葉をもらい、いよいよごまかしもきかなくなっていた15年の秋、父と相談して、専門医を受診したのです。
母は海馬の萎縮が大きい「アルツハイマー型認知症」と診断されました。病名を伝えられた瞬間、母は一瞬体を硬くしましたが、ホッとした様子も見て取れました。
診断された日の帰りの車の中はすごく明るかったです。「これから何する?」とみんなで話して。「まず旅行に行こうか」とか。認知症と確定すればやれることが決まるのです。家族の間でごまかし合っているのは本当に大変でした。気持ちにウソをついて毎日を過ごし、一方でこれからどうなるのだろうと不安がいっぱいで、夜になれば涙が出てきて……。
でもこれからは、ごまかすことに費やしてきたエネルギーを、やれることの方に使えばいい。覚悟が決まると少し楽になりました。治す薬はなくても、進行を遅くする効果がある薬を飲む、そして海馬が縮んでいるのなら、残っている海馬を刺激する楽しいことをすればいいと前向きになることができたのです。
「ごめんなさいじゃないわよ!」

萎縮した海馬を刺激するために始めたのは散歩と料理です。母は脳に問題が起こり始めていても、体はとても元気でした。体は脳が計画をするからこそ動かせます。認知症によく見られる、夕方に落ち着きがなくなる「夕暮れ症候群」は、元気な体のエネルギーを脳がうまく使うことができないため起こります。
エネルギーを使い切れないから夜眠れなくなったり、落ち着かず外に出ていってしまうことがあるのです。脳の機能が衰えている部分を活動させ、あり余る体のエネルギーを発散するという意味でも散歩は効果的です。散歩は父が一緒に行くことになりました。景色に反応を示すなど母にとって散歩は気持ちのいいことのようでした。
そして料理。私は留学期間などを除けばずっと実家暮らしで、家事はほぼ全部、母に任せきりでした。それまで全く料理をしなかったのですが、週3回だけ夕飯を一緒に作ることにしました。
母は料理を作っているということ自体を途中で忘れてしまうのですが、「ニンジンを切って」など、具体的に提示すれば、目の前の一つのことはできました。それまでできなくなったことを私たち家族に責められ、自分の居場所を見失っていた母は、小さな達成感を感じられているようでした。
散歩と料理は続け、時々旅行に出掛け、笑顔が見えることもある一方で、会話などがうまく通じなくなってきつつあった3年前、母の母(祖母)が亡くなりました。
祖母の命に関わる決断のため、母の弟、私たち家族が集められたときのことです。医師から点滴を抜くかどうかというような相談がありました。その頃、祖母はもう針を刺すところがないくらい血管がボロボロになってしまっていました。
判断を求められた私は、「おばあちゃんはもう点滴は抜きたいと思っている気がする」と言ってしまったのです。その途端、なんで孫の自分がこんなことをズケズケ言っているんだろうという感情がワッとあふれてきました。母と母の弟もいるというのに。私は泣きじゃくりながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝っていました。
すると、横にいた母が激しく「ごめんなさいじゃないわよ!」と言って、母も泣き出したのです。認知症になってからの母は変なことを口にしたり、失敗することをとても恐れていて、大事な場面で自分の意見を言うなんてことはまずありませんでした。なのに、この瞬間だけは「ごめんなさいじゃないわよ!」と私をかばってくれました。
子を思う感情は残っている

私は、母が認知症になる前までは、ごはんをつくってくれる人、相談に乗ってくれる人、送り迎えしてくれる人、と母がしてくれることの“能力”で、母を便利な存在のように感じていたと思います。母は空気のような存在で母の人柄というものに焦点を当てて見ていたことはなかった。
そして意識はせずとも、子どもにとって親はずっと強くいてほしいという気持ちがどこかにあったと思います。そうではなくなっていく母を見るのがつらかった。
祖母のところに集まったのは、母が私に興味をなくしてしまったのかな、と寂しく感じることが増えていたときでした。一人でごはんを食べたり、着替えたり、私にしてくれていたことが何もできなくなり、私への愛情を言葉で表現できなくなっていた母。
でも母は私のことをずっと思ってくれている、守ろうとしてくれていると感じられた瞬間でした。
どんなに認知症が進んでも、母としてずっと持っている責任感、子どもを守りたいという思いがある。そのとき、“能力”ではなく、私を思う“感情”が母には残っていて、それこそ母らしさだということに気付いたのです。
次回は、脳科学の面から、“能力と感情”についてお話ししたいと思います。
取材・文=原田浩二(ハルメク編集部)
※この記事は、雑誌「ハルメク」2024年2月号を再編集しています。