随筆家・山本ふみこの「だから、好きな先輩」09

苦しくても美しく咲く!女優「高峰秀子」さんの生き方

公開日:2023.04.22

「ハルメク」でエッセイ講座を担当する随筆家・山本ふみこさんが、心に残った先輩女性を紹介する連載企画。今回は、昭和の銀幕スター「高峰秀子」さんです。苦しい家庭環境の中で、最愛の夫と共に、最後まで美しく咲き続けた、その秘訣とは……。

苦しくても美しく咲く!女優「高峰秀子」さんの生き方
イラスト=サイトウマサミツ

好きな先輩「高峰秀子(たかみね・ひでこ)」さん

1924-2010年 女優
5歳で銀幕デビュー。木下恵介(きのした・けいすけ)監督「二十四の瞳」、成瀬巳喜男(なるせ・みきお)監督「浮雲」、小津安二郎(おづ・やすじろう)監督「宗方姉妹」ほか多数の作品に出演。79年に女優を引退し、エッセイストとして活躍。夫は映画監督の松山善三(まつやま・ぜんぞう)。

どんなことがあっても堂々と生きていけばいい

どんなことがあっても堂々と生きていけばいい

「身辺整理にメドがついたころから、私たちは、今後の(老後の、というべきか)生きかたについて話し合った。『生活を簡略にして、年相応に謙虚に生きよう』。それがふたりの結論だった」(『にんげんのおへそ』新潮文庫)

これを書いたのは、女優にして名文筆家だった高峰秀子。その存在をわたしにおしえたのは、母でした。

もともとファンであったそうですが、若い頃一度ならず二度までもひとから「高峰秀子に似ている」と云(い)われたのも、母にしたら胸躍る出来事だったらしいのです。

お世辞混じりにこんなことを云われるなんざあ、誰にもあることじゃないでしょうか。わたしだって子どもの時分、吉永小百合(よしなが・さゆり)に似ていると云われたことがあるくらいです(学生時代はもっぱら西城秀樹〈さいじょう・ひでき〉でした)。

母に勧められ、高峰秀子の自叙エッセイ『わたしの渡世日記』(1976年)を読んだ日のことは忘れません。

当時社会人になりたてのわたしは、その正直さ、きどらなさ、ユーモア、悲しみを知るひとだけが持つやさしさ、才気に仰天したのです。わたしもきっと、こういう大人になりたいと思いました。

本のなかにあらわれる複雑な家庭環境や、義母との闘い、映画スター稼業の苦労にも驚きましたが、どんなことがあったって堂々と生きてゆけばいいんだと、胸のここに勇気を注入されたのでした。

名画座に出かけ、闇のなかで女優・高峰秀子をみつめたこともあります。どんな仕事も真剣勝負。女優はそれをみせつけるのでした。

苦労の土壌からうつくしい花を咲かせた女優

苦労の土壌からうつくしい花を咲かせた女優

さて、はなしをもとにもどしましょう。高峰秀子と映画監督・松山善三夫妻の、老後の生活の簡略化計画はどうなったのか。

家族同然の従業員の解散、終の住処を建てるためのサム・マネー(資金)調達を経て、書斎、寝室、リビングキッチンの三間こっきりの家が実現したのは1985年、高峰秀子61歳の年、女優業を引退してから6年が過ぎていました。

高峰秀子の生い立ちは恵まれず(夫には恵まれました)、苦労の連続でした。けれど苦労に押しつぶされることなく、そればかりか苦労の土壌からやさしくうつくしい花を咲かせてみせてくれた、このひとの生き方をいま一度思い返したいきょうこのごろです。

随筆家:山本ふみこ(やまもと・ふみこ)

随筆家:山本ふみこ(やまもと・ふみこ)
撮影=安部まゆみ

1958(昭和33)年、北海道生まれ。出版社勤務を経て独立。ハルメク365では、ラジオエッセイのほか、動画「おしゃべりな本棚」、エッセイ講座の講師として活躍。

※この記事は雑誌「ハルメク」2017年1月号を再編集し、掲載しています。


>>「高峰秀子」さんのエッセイ作成時の裏話を音声で聞くにはコチラから

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山本ふみこ

出版社勤務を経て独立。特技は何気ない日々の中に面白みを見つけること。雑誌「ハルメク」の連載やエッセー講座でも活躍。

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