徒然なるままに

鮮明になってきた原風景とアイデンティティー

公開日:2021.07.22

瀬戸内海に浮かぶ小島、女木島(めぎしま)。「桃太郎伝説」のその島で私は生まれ、小学校1年生を終えるまでの8年間をそこで過ごしました。目を閉じれば原風景とも思える数々の景色や出来事が浮かぶのですが、それらはすべてベール越しのようなもどかしさ。

鮮明になってきた原風景とアイデンティティー
女木島の海で。1953年頃5人兄弟と母、住み込みの子守のお姉さんと。父のカメラでパチリ

ベール越しに見える原風景

裸足で幼児の私が立っているのは、キラキラと輝くさざ波の中。砂と一緒に私の足もユラユラと揺れながら輝いています。近くの松の木の上では、結核の疑い有りと静養を申し渡された10歳上の一番上の兄が、休んでいます。

瀬戸内海を左に見ながら、山道を登り家族で白い灯台を目指しています。小・中・高校生の兄や姉との山歩きは、幼児の私には厳しく、途中で泣き出してしまい家族の集合写真にも入りませんでした。

ベール越しに見える原風景
灯台への家族ハイキング。下り坂にホッとしたのか笑顔で先頭を行く私

夏祭りの日、青年達に担がれた「太鼓台」に中学生の男の子達が大きな太鼓を囲んで座り、「若い衆(し)頼むヤ差してくれ♪」ドンドコドンと大太鼓を打ち鳴らすと、台は高く差し上げられ、右へ左へと倒されるのですが、それでも太鼓は打ち続けられ、やがては、お宮のある浜から海へと入って行きます。

ベール越しに見える原風景

小学校1年生の体育は、学校の目の前にある砂浜でのかけっこ。裸足で懸命に駆けるのですが、砂に足を取られてちっとも前に進みません。そんな体育の時間中、突然の落雷で松の木の枝が目の前に落ちてきました。

ある日、女木島のすぐ沖で船が衝突して沈没したというニュースが島中を駆け巡りました。その日、母は船で高松市内へ出かけていました。夕方になっても母が帰ってこないので(沈んだのは母が乗っていた船に違いない)と、幼児の私は泣き続けました。

これらの内、何が事実で、何が思い込み、あるいは読んだ本などと混同したものなのか、今でもハッキリとはしていません。何しろすべてが、ベール越しの風景なのですから。

だんだん鮮明になってきた原風景

心の奥にある原風景は、実際にはない心象風景である場合も多いのですが、 ものの考え方や感じ方に大きな影響を及ぼし、「これがほかならぬ自分なのだ」というまとまりをもった確信、すなわちアイデンティティーの形成に深く関わっていると、私は思っています。

実際、2014年旅行三昧の暮らしをしていた私は、その年の田植えと稲刈りを見逃したことで深い喪失感に襲われました。それらの風景が日本人としての私のアイデンティティーにこんなにも深く関わっていたことを思い知り、それからの旅行は田植えと稲刈りの季節を外してすることにしました。

と同時に、女木島のベール越しのような原風景を確かなイメージにしたいと強く思うようになりました。そこで、2016年夏、3歳から小学校卒業までを女木島で過ごし、女木島に強いふるさと意識を持ち、今でも島に友人を持つ姉に案内をお願いして、娘と孫たち、姪とその子ども達とともに、島巡りをしました。

見事な桜のトンネルの記憶が強い「鷲が峰」に上り、そこにある鬼が住んでいたと言われている人工の洞窟に入った後、毎年花見をしていたところを確かめ、その後、日蓮上人像がそびえる「日蓮山」を見晴るかしながら、「ここら辺で大きなシャシャブ(グミ)が採れたねえ」などと、思い出が一つ一つ鮮明になっていきました。

それから山を下りて、今は空き家となっているかつての我が家だった職員住宅に入ることもできました。「この井戸の中にスイカを吊して冷やしたね」「煙草の葉の乾燥室で焼いてもらった高麗キビ(トウモロコシ)がおいしかったね」「朝に夕にサツマイモばかりを食べていたね」と次々に当時の生活が蘇ってきました。

最後に、当時はとても広いと思っていた「荒神さん」と呼ばれる広場へ。鉄棒代わりにして遊んだ火の見櫓(やぐら)はなくなっていましたが、お御堂は健在でした。「今晩の、お御堂での、映画があるからの、見に来いやあ♫」。誰が呼びかけてくれていたのでしょうか、60年以上も前のそんな声が聞こえてきそうな、懐かしさでいっぱいになりました。

だんだん鮮明になってきた原風景
マリつきやお手玉に夢中になって遊んだ、当時はとても広いと思っていた「荒神さん」
だんだん鮮明になってきた原風景
夜にお地蔵さんを巡りお菓子などをもらった地蔵盆の記憶もかすかに

語り継ぐー女木の少年が見た「紫雲丸事故」―

2021年5月末、次兄から願ってもないような連絡が入りました。新聞配達所を営む友人から、我が家の長兄の投稿記事を見つけたので送りますと言う知らせが届いたとのこと。私は、投稿記事が届いたらコピーして送ってもらいたい旨、次兄にメールしました。

記事の題名は、「女木の少年が見た『紫雲丸事故』」。まだ幼児だった私が、(母が乗っていた船に違いない)と泣き続けたその日の出来事が、当時14歳の中学生だった長兄の目を通して綴られたものでした。

――今から66年前の1955年5月11日。その日の朝、瀬戸内海は濃い霧に包まれていた。私の住んでいた女木島も島全体がすっぽりと霧に包まれていた。学校へ行く用意をしていると、遠くで汽笛がやたらと鳴り、うめき声のようなどよめきがかすかに聞こえていた。~中略~時間がたつとともに、漁師さんなどに救助要請が届き始め、静かな島も騒がしくなった。漂流物も多くなり、子どもには見せられないようなものも漂着した――

続けて事故の概要も書かれていました。――この日の午前6時56分、高松・女木島沖で当時国鉄の宇高連絡船「紫雲丸」が貨車航送船「第三宇高丸」と衝突。「紫雲丸」が数分後に沈没、修学旅行中の小学生など168人もの犠牲者を出した――

家族でハイキングに行っていた白い灯台はこの事故を機に建てられものだったのです。瀬戸大橋の建設の機運もそれから高まりを見せ、児島(岡山県)・坂出(香川県)ルートが1番に選ばれたとのこと。

この記事と併せて、次兄は女木島の情景を題材にした自作の俳句も7句送ってくれました。テーマは「半農半漁」。私の原風景にかかっていたベールを取り払うかのように、女木島での暮らしや風景がありありと浮かんだのが次の3句です。

笹子鳴く藪を透かして瀬戸の海   潮騒の他は聞こえず麦を踏む  島山に日蓮像や畑を打つ

兄たちの文や俳句によって、揺れ動いていた私のアイデンティティーが、確かな方向に動き始めた気がします。

語り継ぐー女木の少年が見た「紫雲丸事故」―
最も昼の長い夏至の日の午後5時頃の空

■もっと知りたい■

harumati

45歳~66歳までC型肝炎と共生。2016年奇蹟とも思える完治から、今度は脳出血に襲われ右半身麻痺の大きな後遺症が残り身体障害者に。同居する息子と夫に家事を任せての暮らしにピリオドを打ち、2021年11月「介護付き有料老人ホーム」に夫と入居。「小さな暮らし」で「豊かな生活」を創り出そうと模索中です。

マイページに保存

\ この記事をみんなに伝えよう /

注目企画