旅の一コマを切り取りました

北の別れ

公開日:2021.04.30

ほんの一年前までは、思いっきり旅ができていましたね。「青春18きっぷ」で北海道を旅したときの出来事を切り取ってみました。

無人駅で

自由に旅ができた頃の話です。乗り鉄の私は北海道・札幌から静岡まで「青春18きっぷ」を利用して乗り継いで旅をしました。その時、札幌から長万部(おしゃまんべ)までの列車が、ある無人駅で停車しました。名前も知らない駅でした。

無人駅のホームに、マオカラー(立衿)のスッキリとした上着を着た知的な紳士が立っていました。電車が止まるとその紳士が乗ってきました。車内は空いていたので、私が座っていた席の二人分ほど離れたところで手に提げていたブランド物のボストンバックを荷棚に上げ、席に座りました。

ただそれだけなのですが、そのあと窓の外で何かが動きました。ふと見ると、そこには小柄な老婦人が姉さんかぶりの手ぬぐいを外しているところでした。その手ぬぐいを、左手でぎゅっと握りしめ右手を窓の方に差し伸ばしていました。その場所は、マオカラーの紳士の背中でした。少しオロオロした様子で窓に向かって手を振っているのです。

マオカラーの紳士の方を思わず、私は見てしまいました。私の視線に気が付いた紳士は、仕方なさそうに窓の方を振り向きました。窓の外の老婦人の目が少し動きました。また手を挙げかけて、紳士の目を見て手を降ろしました。

一度振り向いただけで、紳士はまた何事もなかったように座り直します。そして電車が動きはじめます。老婦人は使いこなれたエプロンのポケットから手ぬぐいをはみ出させながら、電車と同じ速度でホームを移動してきます。

マオカラーの紳士は少し振り向きながら、片手で「ヨシヨシ」とでもいうように手を下に動かしました。それきり振り向くことも無く前を向いて座り続けました。

私はその老婦人から目を離すことができません。ホームの端まで追ってきて大きく手を振っているのです。そして手ぬぐいを取り出して、涙をぬぐっているのです。カーブに差し掛かり、緑の森の中に老婦人も霞んでしまいました。

無人駅で

マオカラーの紳士の思い、母の思い

長万部(おしゃまんべ)に到着するまで、私の頭の中はいろいろな思いでグルグル回っていました。

あの老婦人はマオカラー紳士の母親であるに違いない。マオカラー紳士は、あの小さな駅のある町で育ったに違いない。数年ぶりに里帰りし、少しの間滞在し、母親が見送りについてきたのだろう。マオカラー紳士はきちんと成長し、きっと社会的には立派な地位にある人なのだろう。着ている服や佇まいで空想してしまった。建築家とか、デザイナーとか、きっと名を成した人なのだろう。

手ぬぐいをかぶりエプロン姿で駅まで息子の見送りについてきた母親をうっとうしいとか、みすぼらしいとか、今の自分の生活圏の中に相容れない人として思っているのだろうか。なぜ窓の外で手を振る母に向かい、きちんと手を振るなり、笑顔を向けるなり、声をかけるなり、しなかったのだろうか。

私は、いつまでもいつまでも老婦人の心を思った。その夜はすぐに寝付けるのだろうか、無視されるようにして駅で別れた息子の健康と幸せを今夜も祈っているのだろうか。母とはそうしたものだ。

マオカラーの紳士は、北の駅で母を自分の生活から切り離したのだろうか。母の心を思いやったであろうか。それでも分かり合えているというのだろうか。それにしてはあまりにも母にはやるせない態度だったのではないだろうか。

せつなさの残る北の駅でした。

 

■もっと知りたい■

富士山の見える町で暮らす元気なアラウンド70歳。半日仕事をし、午後はジムで軽く運動。好きなことは絵画を見ることと針仕事。旅先の町で買い求めた布でポーチやバッグを作っています。雨の土曜日は映画を観て、晴れた土曜日には尾根道を3時間ほど歩く。楽しいことが大好きです

マイページに保存

\ この記事をみんなに伝えよう /

注目企画