
50代から「英語の学び直し」♪
「英会話ができるようになりたい」と、50代から英語を学び直す方が増えています!スキマ時間で簡単に英語学習ができるおすすめの方法は?
知人からのLINE、「朗読会を開きます」という案内が届きました。
我が家は静岡県、朗読会の開催場所は東京の下北沢です、……考えました、少し遠いな。でも、行ってみようかな。
誘われたことは予定が入っていなければとりあえず話に乗ろうといつも思っているので、さっそく「行きま~す」と返信していました。
朗読会当日、晴れた土曜日、朝早く家を出ました。何度かJRと私鉄を乗り換えて下北沢に到着しました。
朗読するのは3人、一組のご夫婦と女性が一人です。場内のライトに照らされて真っ白いワンピースで立つ姿は、清楚でありながらどこか謎めいていて見慣れた彼女とは違う雰囲気、舞台の持つ力なのでしょうか?
『木曜日にはココアを』の朗読が始まりました。
優しく自然体でできるだけ派手な動きを抑えての朗読が始まりました。
聞き入るうちに不思議な感覚になりました。
その文中のカフェにあたかも自分自身が入り込んで、その情景を見ているような臨場感を感じるのです。これはいわゆる読書をしている感覚とはまるで異なるのです。実は、私は朗読会に来るまでは「朗読」と「読書」は大して違わないだろうと思っていたのです。
ひと場面、ひと場面の登場する人物の息が聞こえるのです。朗読の文中にはない衣服がすれる音さえ感じるのです。引き込まれるというよりか、その話の中に自分も存在している登場人物になっています。
乗り鉄の私は、ひたすら電車に揺られていることが大好きなので、帰りも各駅停車で帰ろうと予定しています。下北沢から小田急線に乗り小田原経由で帰宅するのが最短距離です。
しかし、この日はチョイとばかり遠回りをしたくなっていました。乗り鉄だけが理由ではないのはわかっています。反芻したかったのです、朗読というものを。
時間が欲しかったのです。朗読を理解することを、一人で考えたかったのです。
下北沢から井の頭線を使って渋谷へ、渋谷からJRで横浜まで乗りました。横浜で途中下車をし、朗読の題名だったココアを飲もうとカフェに入りました。カップを掌で包んでココアの香りを楽しみつつ、朗読について考えました。
なぜ読書とは違うのだろう、何が違うのだろう。引き込まれる度合いが違うのです。ワクワク感やドキドキ感が違いすぎるのです。少しわかってきたのは、芝居を見るのと実際に芝居をするのとの違いみたいな感じでしょうか、いえいえ、それとも違います。
朗読とは、聞き手が受けた情景、情報、知識、色彩感覚、経験値、ボキャボラリーをすべて脳内で分析、脳をフル回転してシナプスをつなげ、実体験のように関知する作業なのだと思うのです。脳内モルヒネの作用か最高に気分が良いのはそのせいだろうかと思うのです。
たぶん、聞き手の認知機能の異なりによって、千差万別の受け取り方が各々の中で起こっているのだと思うのです。聞き手によってまるで違う情景が展開されているはずです。
たとえば、「大きな木」という単語では、ある人はすっくり高く立つ樹を思い浮かべ、ある人はモサモサと葉を茂らす幹の太い樹を連想するでしょうし、またある人はごつごつと肌の粗い枝を張った樹を思い浮かべるかもしれません。
聞き手の情報量や感覚、経験などできっと同じ「大きな木」という文章が各自の頭の中で独自のかたちをとって受け止められているのではないでしょうか。
文字を目で追いながら文脈を描いていく読書、しかし、朗読は……耳で聞き、言葉や単語を一度頭の中に取り入れる作業をひとつ余分にすることです。その頭の中で受け止めることが、ものすごく裾を広げることになるのだと思うのです。
その後も電車を乗り継いで帰宅するまで私の頭の中で「朗読とは……?」の疑問が渦巻いていました。
朗読をする人より、朗読を聞く方がもっともっと文中に入っているのではないだろうかと、何だかお得な感覚を持ちました。読んでくれてありがとうです。きっと、朗読している本人にはわからない世界観を実は聞き手が感じ取っているのですから。
朗読している側は、感情をこめて、抑揚をつけてとか、声の強弱など気にしているのでしょう、しかし聞き手はもうその世界にいるのです。
遅まきながら、なにやら私なりに「読書」と「朗読」の違いをつかめたようです。
多分、私はこの先「朗読」という世界に、聞き手としてのめりこんで行くのだろうと予感しています。決して「朗読」する側になろうとは思いません。だって、聞き手はすごく幸せを感じることができるのですものね。
朗読会に誘ってくださってありがとう。
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