八十路の挑戦(8)

新聞記事「ヒロシマドキュメント」を読む

新聞記事「ヒロシマドキュメント」を読む

公開日:2025年02月20日

新聞記事「ヒロシマドキュメント」を読む

阪神大震災・東北大震災・能登地震の被災地の復興を祈りながら……。

「ヒロシマドキュメント」

昨年(2024年)の8月6日から中国新聞で連載が始まりました。80年前の日にちに合わせて、ヒロシマの様子の追跡・追時体験する記事です。

原爆投下後の記録や市民の証言を1日ごとに再現しています。新聞の休刊日以外、ヒロシマの凄惨な状況や被曝者の失意・悲痛・困窮を医学資料なども交えて綴っています。

「ヒロシマドキュメント」
スクラップブックへの整理が間に合わなくなってしまった切り抜き記事の数々

「ドキュメント1945年8月23日」には、被爆した市内の廃墟の写真が掲載され、「死者なお続く 全容不明」とあります。治療法もわからず、日ごとに死者数が激増する状況だったようです。

後に続くドキュメントによれば、死亡診断書には死因として「戦災火傷死」「戦災焼死」「戦災瓦斯中毒」や「原子爆弾症」と記されているそうです。

遅々として進まぬ復興

「ドキュメント1945年9月11日ごろ」には、「ビール立ち飲みに行列」とあります。見渡す限りの焦土に建つ粗末な掘っ立て小屋の前に人々が長い行列を作っている写真が掲載されています。一杯のビールを飲んで疲れた心身を癒やし、明日への勇気を求めたのでしょうね。

年があけて、1月4日以降は新聞の連載の頻度が減りました。人々の苦況の改善が見えず、復興も進まぬ状況だったのでしょうか。

そして数日後の「ヒロシマドキュメント1946年1月9日」という記事の見出しは「広島市が復興局を新設」。広島市が新設の復興局人事を1月9日に発令したという内容です。被爆から5か月後のことです。

遅々として進まぬ復興
被爆死した市役所職員や市役所へ避難してきた人たちの慰霊碑(市役所前庭)

「ドキュメント」によれば、原爆投下で市職員が多く犠牲になったにもかかわらず、やらなければならない仕事は増える一方。そんななか、「人が減って幹部ばかり多くても能率は上がらない」と、既存の部を廃止して各課を市長に直結させたそうです。

さらにその次は1月15日。「ドキュメント1946年1月」は、「路面電車の復旧進む」という見出しで、市内の復旧の様子を伝えています。被爆3日後には4停留所ほどの短距離単線で路面電車が再開していましたが、ようやく電車がすれ違うことのできる複線になったのです。 

遅々として進まぬ復興
被爆電車 爆心地から約700mところで被爆
半焼したそうですが、1964年3月に営業運転再開「651」が目印

広島平和記念公園は国の名勝に

戦後整備された日本全国の公園のなかで広島平和記念公園が名勝第1号に指定されたのは2008年(平成20年)でした。

2023年のG7広島サミット以来、被爆地ヒロシマに大きな関心が寄せられています。修学旅行生はヒロシマを予習したうえで現地を訪れ、ヒロシマの悲劇を実感・体験しています。

外国人の場合は、ある程度被爆の実態についての知識を持っている人でも、現地で実際に見聞きしてその悲惨さに心を痛め、その後の広島の復興ぶりに驚くようです。

広島平和記念公園は国の名勝に

今年は被爆80年の年。被爆者の数だけドラマがあります。

外国人が驚く広島の復興は奇跡ではなく、人々の多くの苦難と犠牲の上に立つ努力奮闘の結果であり、人類史上忘れてはならない「世界の記憶」なのです。

広島平和記念公園は国の名勝に
「嵐の中の母子像」
右手に乳飲み子を抱え左手で幼児を背負うとしながら、襲い掛かる苦難と悲しみを生き抜こうとする母親を表現
(後ろに見えるのは原爆資料館)

■もっと知りたい■

とし古
とし古

祖母は60歳の頃、針仕事や寺参りを日課にしていました。母は70歳の頃不自由な体で家族のために働き趣味の書道教室にも通っていました。そして私はいま八十路を歩いています。体力・知力は衰えを感じますが考える事・感じる事は昔と変わらないと思っています。死ぬまでにやっておきたい事に色々チャレンジしたいです。

みんなのコメント
  1. バーバラちゃん
    バーバラちゃん

    ヒロシマの事、発信有難うございます。平和って何?と思うこの頃。今だけ、ここだけ、自分だけ良ければの風潮が恐ろしく感じられます。長野県には満蒙開拓平和記念館があります。満蒙開拓の語り部も高齢化、最近では、地元高校生が勉強し、後世に伝えようと頑張っています。 渡来夢