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公開日:2023年10月24日
母と私の最期で最高の時間
「レビー小体型の認知症」が判明して5年。介護施設がコロナウイルス感染症のクラスターに。そんな中、低体温症の母が危篤となります。母が亡くなるまでの過程を、備忘録として書いておこうと思います。
低体温となり、救急車を呼ぶことになった母でしたが、コロナが蔓延し、どこも受け入れてくれません。約6時間、救急車の中で搬送先を探すも、断念せざるを得ませんでした。
そして、次の日の朝一番に、主治医が往診。
「延命治療として、手術などの手を施さないならば、本日が山になるよ」と言われました。
延命治療をしたほうがいいのか、私はここでもつらい決断を強いられました。
母はどちらを喜ぶのか、本当につらい選択をしなくてはなりませんでした。
ただ、母が元気なときの言葉通り、延命治療はせずに、母の最期を見送ることにしました。
これは、一人っ子だからできた早い決断だったかもしれません。
一度自宅へ戻り、お昼に主人、娘、息子と4人で病院へ向かい、母とのお別れをすることにしました。
このとき、施設はコロナのクラスターで立ち入り禁止だったため、家族全員が防護服を着用。
防護服で私たちの顔は見えない状態でしたが、もう母も目を開けることはなく、私たちのしゃべる声だけを聞いていたと思います。
1時間ほど母を囲んで昔話に花を咲かせました。
父の悪口を家族で話していたとき、表情のなかった母が笑ったのを、息子は見逃しませんでした。母がにこっと笑ったことが本当にうれしい瞬間でした。
穏やかに家族でさよならの時間が持てたことは、私にとって幸せな時間でした。
多分母にとっても、そうでありたいです。
その後、丸一日寝ていなかった私は、睡眠のため一時帰宅。
そして、夜の11時ごろ「そろそろ来てください」と連絡がありました。急いで施設に行き、防護服に着替え母のもとへ。
そして、ここから亡くなるまでの3時間、母と二人だけの時間を過ごしました。
1つ1つの思い出を引き出して、いっぱい「ありがとう」を伝えました。
そして、もう話す言葉が見つからず、私の意識ももうろうとしたとき、竹内まりやさんの『いのちの歌』という曲がなぜか遠くから聞こえてきました。
急いで、携帯からこの曲を流して、歌いながら、母とさよならをしました。
これは、誰にも言っていない、私と母の最期の思い出です。
「レビー小体型の認知症」が判明して5年。母は老衰という形で、85年の生涯に幕を閉じました。
お世話になりっぱなしの母とは、これが最後ではないはず。
「次の世界でもきっとまた会える」そう思って、あの世で会えるまでこの世を楽しむつもりです。
(参考資料)
レビー小体型認知症とは|特徴・症状の改善策・有効な薬など | 認知症ねっと
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