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- エッセー作品「一歩前へ」説田文子さん
随筆家の山本ふみこさんを講師に迎えて開催するハルメクのエッセー講座。教室コース 第7期の参加者の作品から、山本さんが選んだエッセーをご紹介します。第3回の作品のテーマは「見落とす」です。説田文子さんの作品「一歩前へ」と山本さんの講評です。
一歩前へ
右下奥歯が痛み受診すると、「親知らずですね。抜くしかないですね」と担当医に言われた。
退職を前に顔がはれたり休んだりはできないと思い、「先生、4月になったらでいいですか」と先延ばしにした。
退職後のやる事リストには英語の勉強や旅行などが連なっていたが、そこに「親知らず」を渋々加えた。
それから2年。先日の朝、件の右下奥歯が痛み、歯ブラシもままならなくなった。
歯科医に電話すると、担当医はずっと先までいっぱいで別の先生になりますとのこと。
診察当日行ってみると、はきはきした女医さんが担当だった。
「あー。以前からですね。抜いて治療をするしかないですね。」
治療の方法やたまに起こるリスクなどについて、スラスラと説明し
「で、いつ来られますか?」と抜く方向で話がまとまった。
心を決められなかった私の腑甲斐無さなど気にもとめず、歯科医として最善の方法を提案し、私の背中を押してくれた。
抜歯当日は、朝から寝込むことを想定し、掃除洗濯ゴミ出しをいつもよりテキパキと行い、プリンや氷嚢を用意して、
「これで生まれ変わって新しい春を迎えるのだ!子を産んだ時を思えばどうということはない!」
と自分を鼓舞して出掛けた。
友達から「頭蓋骨が出るかと思うほど」とか「口が開かないほど腫れた」「前日から抗生剤を飲んで抜いた」などと恐怖を掻き立てられていたが、時代は令和となり、技術が進んだのか歯科医の腕が良かったのか、大きなダメージを受けずに抜歯は終わった。
自宅に戻り、痛み止めと抗生剤を飲んで静かに一晩眠ることもできた。
「あの決意ほどの事はなかったなあ。」と、ほっと胸をなでおろした。
わざと見落としていたやる事リストの渋々項目も、心を決めれば道は開かれた。
翌日、患部の消毒に行った帰りに赤花馬酔木(あかはなあせび)を買った。
小さな桃色の花が咲いている姿に、一歩前へ踏み出した小さな決心を重ねて「フフッ」と一人笑った。
山本ふみこさんからひとこと
「負」の出来事を、坦々と描いてみせる作家の力量を感じました。
右下奥歯が痛む→歯科で親知らずであると診断され抜歯をすすめられる→2年が過ぎ、同じ歯が痛む→抜歯をすすめられ、受け容れる→……ことのなりゆきだけを記すなら、こうなります。
そこに「やる事リスト」を登場させることにより、未来に向けて歩みだす決意が現れるのでした。 赤花馬酔木(あかはなあせび)もいい働きをしていますね。
山本ふみこさんのエッセー講座(教室コース)とは
随筆家の山本ふみこさんにエッセーの書き方を教わる人気の講座です。
参加者は半年間、月に一度、東京の会場に集い、仲間と共に学びます。月1本のペースで書いたエッセーに、山本さんから添削やアドバイスを受けられます。
現在、参加者を募集中です。申込締切は2022年7月4日(月)まで。詳しくは雑誌「ハルメク」7月号の誌上とハルメク旅と講座サイトをご覧ください。
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