やはり邪馬台国?卑弥呼はここに?吉野ヶ里遺跡(前)
2024.09.052024年09月12日
ちょっといいところ
やはり邪馬台国?卑弥呼はここに?吉野ヶ里遺跡(後)
私たちの歴史の教科書には載っていなかった、佐賀県吉野ヶ里遺跡を訪問。弥生時代のイメージを遥かに越えた高度な文明が存在し、豊かな生活が営まれていた様子が復元されていました。私の拙い記憶での弥生時代との違いに驚いて……前回の続きです。
北墳丘墓、立派な高貴な身分の人々のお墓群
園内バスで、まず案内所の方おすすめの北墳丘墓へ行きました。
入り口から入ると微かに独特の匂いがしました。盛り土などがコケやカビで崩れないように特殊な処理を施しているからだそうです。
そこには14基の大きな本物の甕棺が、出土した当時の状況そのままに展示されていました。広い場所にわずか14基の大きな甕棺がゆったりと置かれているのを見ると、よほど高貴な身分の人たちの墓だったことがうかがい知れます。
重要文化財のレプリカですが、青銅の剣も、もともとあった場所に置かれていますし、他の絹やガラスの副葬品も全て立派です。そのことから考えても最高権力者の墳墓だったと考えられます。
北墳丘墓の超豪華な副葬品の数々
甕棺の中には、レプリカですが有柄把頭飾銅剣(持ち手まで青銅の剣)が置かれたままの状態で見ることができます。
通常の青銅剣の持ち手は木製ですが、これは持ち手の部分まで青銅で作られている豪華な品です。
また、特筆すべきはガラスの菅玉が多数出てきたこと。ガラスの成分は中国の長沙のものですが、どこで管に加工されたかはわかっていないそうです。
当時の究極の技術の高さを示すガラスの管玉の装飾品が、ここだけで79点出土したことには驚かされます。
その他の場所で出土されたのは国内外合計してもほんの少数。しかもそれが一つの甕棺に集中していたというので、もしや卑弥呼の甕棺なのでは? と思ってしまいます(中国の記録によると卑弥呼の墓はもっと大きかったらしいですが)。
一般の人の甕棺
甕棺は、北部九州に特有の大型の素焼きの土器の棺のこと。
亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、盛んに使われていたようです。
吉野ヶ里では墳丘墓の北側には、真ん中に道(お参りするための道?)が設けられていて、北墳丘墓と比べると間隔が狭いし小型ですが、その道の両側に数多くの甕棺が埋まっていたそうです。
北内郭の建物
北墳丘墓の傍には、北内郭と呼ばれる高貴な人が政や祭祀を行う場所があります。
木造の建物ですが柱が配置された様子がわかると、土器などに描かれた絵をよりどころに復元されたそうです。
当時の技術がいかに高かったかを証明する高床式の3階建ての大型の建物が復元されていて、現在も登ることができます。
主祭殿2階は政、主祭殿3階は祭祀が行われていた様子を再現した人形がリアルに配置されていて、一瞬タイムスリップしたような錯覚を起こしました。これを見てもこの3階に卑弥呼がいたのではないかと想像してしまいます。
南内郭の建物
南内郭には大きく立派な竪穴式住居が配置されています。当時の王や王の家族などの、さまざまな役割を担う有力者の住まいだということです。
兵士の詰め所や煮炊きする専用棟もあり、当時の生活の様子が偲ばれました。
また、物見やぐらなどもあり、外敵の侵入に神経をとがらせていた様子がよくわかります。
ここまでが有力者の居住区で、その外側に一般の人の居住する場所や貯蔵倉などがありました。
弥生時代にタイムスリップ感覚が味わえる吉野ヶ里歴史公園。ぜひ行ってみてください、おすすめです。
※画像は許可を経て掲載しています。
(おわり)
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