母の教え、私のこれから
母、中村メイコから教わった「喜劇的に生きる」こと
母、中村メイコから教わった「喜劇的に生きる」こと
公開日:2025年11月22日
中村メイコさんのプロフィール
なかむら・めいこ。1934(昭和9)年、作家・中村正常の長女として東京で誕生。2歳8か月のとき映画「江戸っ子健ちゃん」のフクちゃん役でデビュー。以後、女優として映画、テレビ、舞台等で活躍。57年、作曲家・神津善行と結婚。カンナ・はづき・善之介の一男二女をもうけ、「神津ファミリー」としても親しまれる。
神津はづきさんのプロフィール
こうづ・はづき。1962(昭和37)年、東京都生まれ。東洋英和女学院高等部を卒業後、ニューヨークへ留学。帰国後、母の後を継いで女優となる。92年、俳優・杉本哲太と結婚。一男一女の母。現在は年に2回ほど俳優、月に2回ほど刺繍の先生をする他、本物の大人に必要なアイテムを制作しようと受注ブランド「Petit Tailor R-60」を展開中。
母・中村メイコはいつもハチャメチャだったけどちゃんと生きた人でした

「このケープは、母が結婚後に父からプレゼントされたものなんです」ボタンのネックレスは、はづきさん作。
母・中村メイコが亡くなったのは、2023年の大みそか。家で娘たちと紅白歌合戦を見ていたら、父から「お母さんが息をしていないかも」と電話があって。歩いて10分ほどの両親のマンションへ行くと、母はいつも通り、ベッドの上で酔っぱらって寝ているみたいでした。
「ちょっとー、酔っぱらってるの?」と叩いて起こそうとしたけれど、胸に耳を当てると息をしていない。慌てて救急車を呼びました。先生によると、車いすだった母は、いわゆるエコノミークラス症候群のように小さな血管がいくつか詰まり、ふっと逝ってしまったんだろうと。
父に「ママ、今日は具合悪かった?」と聞いたら、母は2日に1本ウイスキーを飲んでいたんですが、「今日は3分の1しか飲まなかったから調子が悪かったかもしれない」って(笑)。89歳まで大好きなウイスキーを飲んで、ふっと逝った母は本当に見事でした。
母が亡くなった後、物があふれているであろう衣裳部屋は見るのも嫌だったんです。でも生前、母はちょこちょこ整理していたんでしょうね。入ってみるとガラーンとしていて、服は想像していた量の10分の1ほどしかありませんでした。
大量にあったきものも「カンナへ」「はづきへ」と張り紙がしてあって、姉と私にそれぞれ16枚くらい残しただけ。だけど小さな引き出しを見落としたのか、帯揚げが100枚くらい出てきて、“ああ、ママってこういう人だったな”と。
父が買った高価な時計だとかバッグ、宝石類はバンバン人にあげちゃって、代わりに私たちの幼稚園の頃の制服だとか新婚時代のエプロンなんかがとってありました。
それを見たとき、母が大事にしていたものがわかって、本当にシンプルに生きてきたんだなと思いました。母は「人生とは」みたいな話を1回もしたことがなかったし、いつも酔っぱらってハチャメチャだったけど、ちゃんと生きた人なんだなあと、亡くなってからよくわかりました。
どんなに大変だろうと涙は隠して喜劇的に生きる

あれは私が小学校に上がる前。母はたびたびホームパーティーを開き、家に友人を招いてどんちゃん騒ぎしていました。
その日もパーティーがあって、ふわっと裾が広がるワンピースを着せられた私がクルクル回って座っていると、母が「あなたはお姫様でもないし、美人でもない。だから立って手伝いなさい。そこにいては邪魔なだけ」と言ったんです。ちょうど『シンデレラ』を読んでいた頃だったから、“この人は絶対に継母だ”と思いました(笑)。
もしかしたら酔っぱらっていたのかもしれないし、ただ邪魔だわと思っただけかもしれない。でも、その言葉がよくも悪くも今の私を作り上げたのは確かです。好きな人の前でも“私は黙っていてはダメ、何か面白いことをしなきゃ”と、つい三枚目になってしまって、うまくいかない恋もあったし(笑)。
ただ今になれば、あのとき母に言ってもらってよかったなと思うんです。きれいなドレスを着て、誰かがきれいと言ってくれるのを黙って待っているような女にならなくてよかった。自分で立って動くこと、そしてどんなに大変だろうと、涙は隠して喜劇的に生きることを母に叩き込まれた気がします。
『ママはいつもつけまつげ 母・中村メイコとドタバタ喜劇』

小学館刊/1870円
神津はづきさんが、母・中村メイコさんとのドタバタな日々を愛情とユーモアたっぷりに綴り、発売すぐに重版した初著作エッセー。
取材・文=五十嵐香奈(ハルメク編集部)、撮影=日高奈々子(神津はづきさん)、中西裕人(中村メイコさん)、ヘアメイク=榊 美奈子(神津さん)
※この記事は、雑誌「ハルメク」2025年4月号を再編集しています。




