死のうと思い詰めた苦悩の日々 女優人生を掛けた挑戦
2024.06.01
公開日:2024年06月01日
シリーズ彼女の生き様|草笛光子 #2
短かった結婚生活のこと 悲しみや後悔を残さない智恵
正々堂々とやり切ったなら 完全燃焼して悔いは残らない。 中途半端にくすぶっているより ずっとよかった
写真提供=草笛光子さん
母との合言葉は「きれいに生きましょうね」
――1950年に松竹歌劇団に入団した草笛さんは、早くから舞台で注目され、53年には松竹から映画デビュー。NHKのラジオに出演するなど仕事の幅をどんどん広げていきました。そして約4年間在籍した歌劇団を退団後は、母・冨田登美恵さんがマネージャーとなり、芸能界を二人三脚で歩んでいきます。
松竹歌劇団に在籍しながら映画やラジオの仕事が増えると、母が送り迎えをしてくれるようになり、退団後はマネージャーになってくれました。
母はもともと普通の主婦でしたが、とても社交的で誰からも好かれる人でした。東宝の取締役をしていた劇作家の菊田一夫先生から「かあちゃん、かあちゃん」と慕われたり、市川崑監督に「ママ、麻雀しようよ」と誘われて朝まで付き合ったり。私よりも人気があったくらいでした。
芸能界とは縁がなく、まったくの素人だった母は、親心から私のマネージャーになったことで、映画関係者や舞台関係者にもまれ、とても苦労したはずです。芸能界の裏も見てしまった母はよく「光子ちゃん、きれいに生きましょうね」と言い、それは二人の合言葉になりました。
きれいに生きるとは、外見のことじゃありません。人に嘘をついたり、人を押しのけたり、汚いことはせず、心をきれいに生きるということ。それは90歳になった今も私の生き方の軸であり続けています。
大恋愛から結婚へ2年と持たず別れることに
――1958年から日本テレビで音楽番組「光子の窓」がスタート。草笛さんは歌って踊って演じて、オールマイティな女優として人気を博していきます。作曲家の芥川也寸志さん...