「バカ!」と母に叱られて
がんばり過ぎている自分に
ようやく気が付きました

舞台や映画など、90歳の今も現役を貫く女優の草笛光子さん。その長いキャリアを語る上で忘れてはならないのが、日本のミュージカル女優の草分けとしての功績。草笛さんがミュージカルに捧げた情熱、そして死のうとまで思い詰めた苦悩について伺います。

いきなり役を降ろされ
失意のどん底でニューヨークへ


――ミュージカルが日本で知られるようになったのは1960年代。東宝の菊田一夫さんがブロードウェイの名作「マイ・フェアレディ」の上演権を獲得し、日本の舞台で成功させたのがきっかけでした。
 

私は、菊田先生から声をかけられて、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」の日本版に出ることになっていたんです。ところが、本場の舞台を見て勉強してこようと張り切っていた矢先、菊田先生から「あれは別の女優に決まったから」と、いきなり役を降ろされて……。悔しくてショックなんてものじゃありませんでした。

失意のどん底でニューヨークへ行った私は、ブロードウェイでミュージカル「ラ・マンチャの男」を見て、“こんな舞台があったとは!”と大きな衝撃を受けました。この作品を日本でも絶対にやらなきゃダメだと思い、帰国後すぐ東宝へ。「上演権を獲ってください」と菊田先生にお願いしたんです。

そして“この作品こそ絶対に私がやりたい”と思って、体力づくりのために毎朝自宅のまわりを走って体を鍛えるようになりました。

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