滑走路

2020年11月07日

文庫化、映画化された注目の歌集

『滑走路』非正規の歌人萩原慎一郎さんをご存じですか

50代コラムニストの矢部万紀子さんによる、カルチャー連載です。今回は、歌集として異例のベストセラーとなり、2020年に文庫化、映画化もされ話題の“非正規の歌人”萩原慎一郎さんの『歌集 滑走路』を取り上げます。

『歌集 滑走路』は第一歌集にして、遺作

文庫化した滑走路
『歌集 滑走路』角川文庫
著者 萩原慎一郎
定価 580円(+税)

萩原慎一郎さんという歌人を紹介します。『歌集 滑走路』が2017年に出版され、とても評判になりました。それから3年たった20年9月、『歌集 滑走路』は角川文庫に入りました。

1984年生まれの萩原さんは17年6月、わずか32歳で亡くなりました。第一歌集が遺作となってしまったのです。

『滑走路』に好きな歌はたくさんあるのですが、最初にこれを紹介します。

きみはいまだにぼくのこころが所有するプールのなかを泳いでいるよ  「こころの扉」

終わった恋の歌です。でも別れたはずの人が、プールでのびのび泳いでいます。キラキラした光の中、まっすぐ進む。その人のフォームまで目に浮かびます。ちょっとユーモラスな中に、哀しみが宿っている。萩原さんらしい歌だと思います。

萩原さんは大学を卒業後、非正規雇用で働いていました。

ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる  「非正規」

シュレッダーのごみ捨てにゆく シュレッダーのごみは誰かが捨てねばならず  「テロリズム」

短歌に登場する「きみ」と萩原さんの優しいまなざし

萩原慎一郎さんは神保町が好きだったそう
萩原さんは、週末になるとよくリュックを背負って書店に通っていたそう


私が社会人になったのは、萩原さんが生まれる1年前でした。女性の就職はいろいろと大変でしたが、大卒→非正規雇用という道はまだありませんでした。それが今や当たり前になり、非正規の人なしで職場は成り立たない状態です。その人なしで成り立たないという人を、「非正規」で雇っているのです。

萩原さんの仕事をうたった短歌には、「きみ」がよく登場します。先ほど紹介した牛丼屋の「きみ」以外にも、例えばこんな歌もあります。

「研修中」だったあなたが「店員」になって真剣な眼差しがいい  「タルタルソース」

レジで「研修中」のバッジを付けた人をよく見ます。飲食店でもコンビニでも書店でも。萩原さんはそんな風景に「きみ」「あなた」を見ました。でも、見ていたのはそこにいる人だけではなかったと思います。自分と同じような立場で働く人々。そしてその先に、生きとし生けるもの全てを見ていた。そんなふうに感じます。

大袈裟かもしれません。でも、萩原さんの歌を読むとなぐさめられ、励まされます。温かい眼差しに、そっと寄り添われたような気持ちになります。人とは弱いものです。時には、寄り添われたいです。萩原さんは、そういう全ての人を見ていた。そんなふうに思うのです。

同時に萩原さんは、広いところに出ようと努力し、もがいてもいました。今いるところが狭い、という意味ではありません。努力の先にある、広いところ、大きなところ。そこを目指している。そんな意味です。

きみのため用意されたる滑走路きみは翼を手にすればいい  「滑走路」

歌集のタイトルにもなったこの歌からは、「広いところ」へ行きたい気持ちが伝わってきます。それを「きみ」と共有しようとするところが、萩原さんだと思います。他にもこんな歌があります。

群衆の一部となっていることを拒否するように本を読みたり  「群衆」

キーボード叩きたくなる。こんな夜は。胸に積乱雲を抱きつつ  「未来模索」

若者らしい焦り、そして努力。読むと、胸が熱くなります。「、」とか「。」を使う歌も、散見されます。31文字という制約の中で、自由になる。そんな意思を感じます。

萩原さんは合格した中高一貫校でいじめに遭い、高校2年になるまで親にも伝えず耐えました。精神的な不調が起こり、通院と自宅療養をしながら大学を卒業しました。生きる希望となったのは、17歳から作り始めた短歌。いくつかの大きな賞を受賞し、歌集の出版を決め、選歌し、あとがきを書き、角川『短歌』編集部に渡しました。その後、出版を待たず急逝。自ら命を絶ちました。

以上は文庫に収められた、ご両親の文章「きっとどこかで」から主にまとめました。

発売された『歌集 滑走路』の文庫には、又吉直樹さんの解説「優しさに充ちた非凡な感性」も入っています。とても良い文章です。又吉さんは萩原さんの4歳年上。才能ある同世代同士の、時空を超えた出会い。そんなことを思いました。
 

『歌集 滑走路』は映画としても公開されます

映画滑走路
ⓒ2020「滑走路」製作委員会

そして、『歌集 滑走路』は映画にもなったのです。同名の映画「滑走路」が11月20日に公開されます。歌集をドラマにするというのは、とても大変なことだと思います。78年生まれの大庭功睦さんが監督、82年生まれの桑村さや香さんが脚本。やはり同世代同士が時空を超えて出会い、切ないけれど温かな映画になりました。

公開まで少し時間があります。文庫を読んで映画を見て、再び読む。萩原さんをより深く知っていただきたく、そうおすすめする次第です。
 

滑走路

出演:水川あさみ 浅香航大 寄川歌太/木下渓 池田優斗 吉村界人 染谷将太/水橋研二 坂井真紀
11月20日(金)全国ロードショー
配給:KADOKAWA

■もっと知りたい■

矢部 万紀子
矢部 万紀子

1961年生まれ。83年朝日新聞社に入社。「アエラ」、経済部、「週刊朝日」などで記者をし書籍編集部長。2011年から「いきいき(現ハルメク)」編集長をつとめ、17年からフリーランスに。著書に『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』(ちくま新書)『美智子さまという奇跡』『雅子さまの笑顔』(幻冬舎新書)

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