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- コスパ、優生思想で命を切り捨てる空気に歯止めを
2020年7月、医師2人が金銭を受け取りALS患者を“安楽死”させた事件が起こりました。その背景には、優生思想の尺度によって命を選別する空気がありました。どんな立場の人の生きづらさにもつながる、命を切り捨てる空気について考えます。
京都嘱託殺人の背景にある、命を切り捨てる空気とは
2020年7月、ソーシャル・メディア(SNS)を通じて知り合ったALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の林優里さん(当時51歳)に致死量の薬物を注入し、金銭を受け取り“安楽死”させたとして医師2人が嘱託殺人罪で逮捕(8月に起訴)される事件が発覚しました。
被告の一人、大久保愉一被告(42歳)のものとみられるツイッターには、高齢者を入院させる病院を「うば捨て山」と表現するなど安楽死を肯定する多数の発信があり、フォロワーも多くいたといいます。人間の命を社会的コストや生産性、優生思想の尺度で選別し、「役に立たない」と思った命を切り捨てようとするこの社会の空気について考えます。
報道によると、亡くなった林さんは米国留学で建築を学ぶなど活発な性格でした。米国から帰国し、東京の建築設計事務所で働いていた2011年にALSを発症。闘病後も車いすを使ってハワイ旅行に出掛けるなど、暮らしを楽しんでいたといいます。
病状が進行した後は、胃ろうを装着し、パソコンの視線入力を利用して友人や支援者らとコミュニケーションを取っていました。しかし精神的な揺れは大きくなり、林さんのものとみられるブログには、「惨めだ。こんな姿で生きたくないよ」「自分では何一つ自分のこともできず、私はいったい何をもって自分という人間の個を守っているんだろう?」との文言が記されていました。
ALSは、進行すれば歩行、食事、会話や呼吸が困難になり、延命のために胃ろうや人工呼吸器を装着する必要があるなど過酷な難病です。根治法もないことから、発病後の患者が受ける精神的な衝撃や喪失感はかなり大きいといわれます。活発だった林さんだけに、自立して生きていく力を失われることに、絶望を感じたのかもしれません。
一方で、周囲の支援の力によってALSという難病を受け入れ、目的や希望、社会的役割を果たすなど、充実した日々を送る患者もたくさんいます。なぜ林さんは死を望み、2人の被告は法を犯してその求めに応じたのでしょうか。
詳細はこれからの裁判過程で明らかにされていきますが、これまでの報道では、スイスでの安楽死の実現をテーマにしたNHKのドキュメンタリー「彼女は安楽死を選んだ」を見たことで自殺幇助(ほうじょ)への思いを強めていったという林さんの主治医の語りや、主治医に栄養補給の中止を求めて断られた後に、被告に報酬額を示したことなどが捜査関係者への取材から明らかにされています。
「すべり坂」が起きる可能性は否定できない
安楽死は日本では違法ですが、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、カナダで安楽死が合法化されています。またスイスや米国の一部の州では、医師幇助による自殺が、合法です。いずれも本人の意志を前提に、不治の病であること、耐えがたい痛みがあることなどの厳格なルールがあります。
静岡大学の松田純教授の著書『安楽死・尊厳死の現在 最終段階の医療と自己決定』(中公新書刊)によれば、合法化の歴史が最も長いオランダの場合、安楽死が広がり2017年には死亡者の20人に1人が、安楽死法に基づいて自らの生命を終結させたといいます。
こうした本人の要請による「死の自己決定権」が広がる背景には、欧米の「個」を重視する自由主義的思想が背景にあります。しかし松田教授によれば、オランダでは、病気でもなく、身体的不調はさほど深刻ではないのに「もう高齢で、人生はもうたくさんだから死にたい」という老いの精神的苦しみによる安楽死の要望が増えるなど「法の拡大解釈」が広がっており、さまざまな議論が起きているといいます。
死の自己決定権は、自分の生きている価値は何なのか、という哲学的なテーマに深く関わるだけに善悪を一律に判断できず、「それも一つの死のあり方である」との認識は広がりつつあります。しかし、こうした拡大解釈が進めば、「社会に迷惑をかける」「私もあの人と同じように安楽死したい」などの理由によって、安楽死が強制される「すべり坂」が起きる可能性は否定できません。そしてその被害に遭うのは、いつも障害などを抱えた弱い立場の人々です。
現代にも生きる優生思想的な考え方とは?
生産性が高い人、能力が高い遺伝子を持つ人が社会的に生きる価値がある、という考え方を「優生思想」といいます。チャールズ・ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトンが19世紀にこの思想に基づいた学問である「優生学」をスタートさせました。
ゴルトンは、人間の才能がどの程度、遺伝によるのかを調べるため、家系に関する資料を集め、統計学的手法でこれを明らかにしようとしました(米本昌平ほか著『優生学と人間社会 生命科学の世紀はどこへ向かうのか』講談社現代新書)。
優生思想のもとでは、障害者は能力が低いとされ、ナチス・ドイツ時代には、T4作戦と呼ばれる障害者安楽死作戦が行われたことは有名です。「生きるに値しない」とみなされた多くの精神障害や知的障害を持つ人々の命が犠牲になりました。
しかしこうした優生思想は、現代にも根強く生きています。林さんの安楽死事件が発覚し、大きく報道された矢先の7月26日、神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で19人が殺害された事件が、4年を迎えました。
殺人などの罪に問われた植松聖被告(30歳)には、すでに死刑判決が言い渡されましたが、植松死刑囚は意思疎通がとれない人を「心失者」と呼びました。
「意思疎通がとれない人間を安楽死させるべき」
「私の考えるおおまかな幸せとは“お金”と“時間”です(中略)重度・重複障害者を養うことは、莫大なお金と時間が奪われます」
「悔しいですが、人間は『優れた遺伝子』に勝る価値はありません」
植松死刑囚は、月刊『創』編集部への手紙にこう書き記していました(月刊「創」編集部編「開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件」創出版)。19人の命が奪われた背景には、人間をコストや生産性で捨て去ろうとする合理的な側面や、優秀な遺伝子を崇拝する優生思想があることがわかります。
また、ちょうど同じ頃、ロックバンド「RADWIMPS」のボーカル、野田洋次郎(35歳)さんが、高校生棋士の藤井聡太棋聖(18歳)が史上最年少でタイトルを獲得したことについて、
「前も話したかもだけど大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思ってる。お父さんはそう思ってる#個人の見解です」(2020年7月16日)」
などとツイートしたことが、優生思想的な発言ではないかとの批判の声が上がり、話題になりました。
「自分はそうではない」「そうあらねば」に追い込まれる人々
現代の過度な競争による消費・能力社会を生きる私たちは、知力や運動能力が高かったり、健康で若かったり、美しかったり、あるいはお金を稼いでいたりするなど、「一面的で」「わかりやすい」尺度で人を判断しがちです。
しかしこうした側面を賞賛する空気が蔓延すれば、「自分はそうではない」と多くの人々が生きる意味を失い、一方で「そうであらねば」と必死に走り続ける人々の側も、過度な競争の末に過労死や精神疾患を発症し、自殺などに追い込まれているのは周知の事実です。
嘱託殺人罪に問われた大久保被告は、何度か自殺未遂をはかった経験があることを、被告の妻が明かしています。妻によると、大久保被告は仕事や対人関係がうまくいかず、落ち込むことがあったといい、「今回の事件は死にたいという気持ちに共感したのかもしれない」と話しました。大久保被告のものとみられるツイッターには、時折、自らを卑下するかのような内容も見受けられ、大久保被告も加害者でありながら、この過度な競争社会の被害者であったのかもしれません。
被害者となった林さんも、加害者として罪を問われている大久保被告も「死にたい」と思いつめた末に、引き起こされた今回の嘱託殺人事件は、競争や優劣、コストや生産性などの単純な尺度を捨て、それ以外の多様な視点を大切にしながら生きることの大切さを、改めて私たちに教えてくれている気がします。
参考資料:
2020年7月24日朝日新聞朝刊:逮捕の医師「安楽死」肯定か ALS患者を嘱託殺人容疑 ネットに持論
2020年7月25日 京都新聞オンライン:大久保容疑者「頻繁に死にたいと言い、自殺未遂することも」 妻が明かす
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/314917
2020年7月29日朝日新聞朝刊:林さんの命 支え続けたが ケアチーム「生きる選択できる社会に」
2020年7月29日朝日新聞夕刊:女性が報酬額提示か 嘱託殺人「治療中断」断られ
2020年7月30日 京都新聞:死への思い「NHK番組観て」傾斜か 「安楽死」のALS女性、主治医が初めて語る姿
2020年8月6日朝日新聞朝刊:安楽死議論より「生きるための支えを」当事者団体が会見
2020年8月8日 Yahoo!ニュース QJWeb: 野田洋次郎「お化け遺伝子」ツイートから考える「優生思想」の現在。才能を育てるシンプルな方法
https://news.yahoo.co.jp/articles/e9d13da5695e7aa3bf894b68ef0286ccb68a4464
2020年8月14日読売新聞朝刊:ALS嘱託殺人 患者らの思い 周囲の支え 前向く力
2020年8月14日朝日新聞朝刊:延命批判「安楽死」に染まった 大久保容疑者 病院は「うば捨て山」
松田純著『安楽死・尊厳死の現在 最終段階の医療と自己決定』(中公新書)
米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝著『優生学と人間社会 生命科学の世紀はどこへ向かうのか』(講談社現代新書)
月刊「創」編集部編『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』(創出版)
清水 麻子
しみず・あさこ ジャーナリスト・ライター。青山学院大学卒、東京大学大学院修了。20年以上新聞社記者や雑誌編集者として、主に社会保障分野を取材。独立後は社会的弱者、マイノリティの社会的包摂について各媒体で執筆。虐待等で親と暮らせない子どもの支援活動に従事。tokyo-satooyanavi.com
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