人生100年時代の働く女性へジタバタのすすめ
2024.06.222024年06月22日
シリーズ彼女の生き様|坂東眞理子 #3
ジタバタ期こそが苦難や挫折を乗り越える底力
今、あの頃を思い出すと、 仕事ができるようになりたいと 一生懸命もがいていた自分を 「いじらしいな」「好きだな」 とも思うんです。
女子の就職先はたったの3択
これしかないかと「公務員」に
2024年、とてもうれしいことがありました。1月10日の「今日は何の日?」というNHKの番組で、「1978年1月10日、第1回『婦人白書』が発表されました」と放送されていたのです。思わず、「私よ~、私が書いたのよ~!」と叫んでしまいました(笑)
第1回の『婦人白書』は、私が32歳のときに提案して書き上げた仕事でした。総理府に入省して10年、この白書を世に出せたことで、「やっとまともに仕事ができた。これで公務員としてやっていける」、そう思えたのです。
でも、そこに至るまでの間は、仕事への自信を持てず、自己肯定感も低く、仕事と子育てで一日一日が綱渡りの状態。20代は人生で初めて経験する“ジタバタ期”でした。
1969年、私は大学を卒業して総理府に入省しました。当時は大卒女子には民間企業からまったくお声がかからなかったので、仕事をするなら大学に残って研究者になるか、高校の先生になるか、公務員になるかの3択でした。
中央官庁に入って公務員になる男子は、出世したいとか、社会を動かしたいといった志を持ち、大学1年生の頃から公務員試験の勉強をしていましたが、私にはそういう志があるわけでもありません。研究者には向かないし、他に選択肢がないからというのが志望の動機。ドタバタと公務員試験の受験勉強をして、たまたま総理府が女子を採用してくれるというので、やっと隅っこの方で採用してもらったような状況でした。
毎日必死でできることを増やしていた頃(本人提供)
おじさんばかりの職場で
女子はコピーや資料作成の日々
当時の総理府は基本的におじさんばかりでした。たまに50代くらいの叩き上げの女性職員がいましたが、キャリア女子は私が初めて。女子を採るなんて物好きなものだと、当時の人事課長さんたちは周りからずいぶん冷やかされたそうです。
職場では“珍獣・パンダ”のように珍しがられました。キャリア女子がどういう生態を示すか興味津々といった感じで、「やる気あるのかな」「あんまりおしゃれじゃないな」「あ、あくびしている」などと遠巻きから観察している。とても居心地が悪かったです。でも嫌味を言われたり、攻撃されたりするようなことがなかったのは、ラッキーでした。
仕事はコピーやメモを取るといった単純作業が主でしたが、私はとても苦手でした。コピーしたのが斜めになっていたり、偉い人に出す会議の資料が逆さまになっていたりして(笑)、事務処理能力には長けてないなぁと、自分でもよく悲しい思いをしました。
あんまり役に立たないし、公務員に向いているとも思えない、このままいつまで仕事を続けられるのだろう……と。
当時は珍しい「働くママ」に
仕事と育児の両立に悩みながら
その一方で、24歳のときに高校・大学の同級生と結婚し、26歳で長女が生まれました。当時は子どもが生まれた後も働き続ける女性が本当に少なくて珍しがられました。周りもどう扱っていいかわからないし、私もどう振舞っていいかわからなくて、お互いに困っているような状態でしたね。
それでも、仕事を辞めて家庭に入るということは、全然考えていませんでした。私は掃除や整理整頓といった家事が苦手で、主婦の適性がないとよくわかっていたからです。仕事を辞めて家の中にいて自分が不得意な土俵で苦労するより、仕事をしながら子育てもがんばる方がまだ生産的だと思ったのです。だけど、見通しは甘かった……。
仕事と子育ての両立は本当に大変でした。当時は保育所に入るのに48倍の競争率でね、東大に入るより難しかったんです。子どもが病気をしたときなどは富山の母に頼んで夜行列車で駆けつけてもらったり、遠くに住んでいた姉や友人に泣きついたり、またご近所の方に二重保育をお願いしたりして助けてもらいました。
アメリカ出張前に次女(2-3歳)を腕に抱いて。
(本人提供)
仕事と子育てをちゃんと両立できるという見通しも自信もないのに、やっちゃった。泳げないのにいきなり水の中に飛び込んで、ジタバタもがいていた。そんな感じだったんです。
あの頃は自分一人でもがいているように思っていましたが、今になって思えば、母や姉、友人、保育士さん、ご近所の方たちのおかげで、なんとか生き延びられたんだなと、本当にありがたく思います。毎日、一生懸命ジタバタしていたから、周りの人も見るに見かねて助けてくれたんでしょうね。
そう、ジタバタしていたら、地獄で仏が出てくるんです!(笑)
一生懸命もがいたから得られた
仕事への満足感と味方
そしてジタバタしているうちに、これならできるというものが見えてきました。婦人白書を書くことができたのも、そういうジタバタ期があったからこそ。書いた後は1年間研究休暇をもらって、ハーバード大学に研究員として単身留学する機会もいただきました。
留学中は母が子どもの面倒をみてくれました。民間企業でエンジニアをしていた夫は、当時は若くてこき使われていましたから、育児や家事では完全に戦力外。それでも妻が1年間、家を空けることは認めてくれました。当時の世の夫は「仕事を取るか、僕を取るかどっちかにしてくれ」なんて言うのが当たり前で、「妻が働くのを許してくれる男性は素晴らしいわね」などと言われるような時代だったのです。
娘たちは「お母さんは授業参観にも来てくれない」などと文句を言ったりして、高校生くらいまでは家の中の批判勢力でしたが、大人になったら変わりました。「そんなこと言ってたっけ?」と。自分たちもワーキングマザーになり、母親の理解者になってくれたようにも思います。
今、あの頃を思い出すと、一生懸命だった自分を「いじらしいな」「好きだな」とも思うんです。仕事ができるようになりたいと一生懸命にもがいていた、ジタバタしていた。そんな時期があったから、公務員として満足のいく仕事ができるようになり、そして現在につながっているのだと思います。
今、学生たちにも言っているんです。ほどほどに勉強して、ほどほどでいいと思っていたら、ほどほどの人生になっちゃうわよ。置かれた場所で、一生懸命ジタバタしなさいって。まさに“ジタバタのすすめ”ですね。
取材・文=佐田節子 写真=林ひろし
構成=長倉志乃(ハルメク365編集部)
【シリーズ|彼女の生き様】
坂東眞理子《全5回》
坂東眞理子
ばんどうまりこ
1946(昭和21)年、富山県生まれ。東京大学卒業。69年、総理府入省。内閣広報室参事官、男女共同参画室長、埼玉県副知事などを経て、98年、女性初の総領事(オーストラリア・ブリスベン)。2001年、内閣府初代男女共同参画局長を務め退官。04年、昭和女子大学教授となり、07年、同大学学長。16年から理事長・総長、23年から現職。06年刊行の『女性の品格』(PHP新書)は320万部を超えるベストセラーに。最新刊に『幸せな人生のつくり方――今だからできることを』(祥伝社文庫)など著書多数。