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「ちえさん」に出会う
東海道沿いの興津宿は、山と海に挟まれた細長い町です。山すそをJR東海道線が走ります。
線路を渡り、山側に立つ鳥居をくぐって曲がりながら登っていくと神社があります。神社で一息入れて立ち止まっていると、声をかけられました。
かれこれ10年ほど前の触れ合いを思い出しています。
「ちえさん」は地下足袋を履いています、肩には大きな背負い籠、手ぬぐいで姉さんかぶり姿です。
「あんた、見かけない顔だね。どこから来たんだい」と、同じ市内の街の名前を答えると「それは、私の在所だね」と笑いかけてきます(こちらの方言で、在所とは実家やお里のことです)。
一息ついたころ、「ついて来るかい」とのこと、スタスタと先に立って歩き始めます。
神社を通り越すと山道になりますが、ずんずん登っていきます。少し歩くと木々の枝を避けて、板でできた小さな木戸のようなものを開きました。その先はミカン畑になっているようで、「ほい、その木戸は閉めておいてくれ」と言います。木々で隠れて見えないように、木戸を閉めました。
少し登っていくと急に目の前が開けました。そこには、木造の小屋が建っていて、小屋の前には大根やホウレンソウなどが植えてあります。重そうな戸を開けると、小屋の中は二つに分かれています。
土間と板敷の床で、どちらも6畳ほどの広さ。土間には農作業に使うクワやスキ、カマなどと大きなミカンのカゴが積み重ねてあります。土間の木箱の上には、黄色の菊の花が水盤に活けてあります。
板敷に腰掛けるとミカンを手渡してくれ、問わず語りにいろいろ話をしました。名前は「ちえさん」、85歳、この興津に嫁いできたそうです。私はリュックの中に入っていたチョコレートを取り出して、二人で食べました。
「ちえさん」の桃源郷
この小屋は、ご主人が生前に自分一人の手で建てたものだと言います。「これを建ててくれて本当に良かったんだよ。私には天国だよ」
「ちえさん」は、見よう見まねで花を活けて楽しんでいるそうです。「な~に、自己流だよ」とはにかみます。子どもたちは県外に住んでいるので、ミカンや野菜を作っては送ってあげるのが楽しみだと話します。
興津では長男家族と暮らしていますが、昼間は自分が家にいるとお嫁さんが窮屈だと思い、朝ご飯が済むとこの山の小屋に登ってきて歌ったり農作業をしたり、花を活けたりして過ごし、夕方になると家に戻ると言います。
少し、聞いていて切なくなりましたが、「ちえさん」は明るく「世代が違うから仕方がないよ」と笑います。「だからこの小屋と畑、ミカン畑が自分の居心地の良い場所なんだよ」と言います。
この出会いの後も、お菓子を持ってこの山に登ってきましたが、そのたびに喜んでくれて、1時間ほど話をして過ごしました。
何回目かに山の小屋に行くと、小屋前の畑は草が生い茂り、小屋の戸は固く閉ざされていました。メモ書きで「ちえさん、お元気ですか」と戸に挟んで帰りました。興津のどこに家があるのか、名字も知らず、ただ「ちえさん」としか知りません。それでよかったのかもしれません。
きっと「ちえさん」は、毎日一人で心地よい桃源郷で歌いながら、畑仕事をし続けたのだろうと思っています。
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