地元広島の名所をたどる

歴史好きな私が、広島城をご紹介します

公開日:2020.12.22

年齢を重ねても好奇心旺盛で、アクティブなとし古さん。今回は地元・広島市の名所、広島城を歴史を交えて紹介してくれました。コロナ禍で旅行に出掛けにくい昨今ですが、地元の名所を巡ってみるというのは、手軽でいい楽しみ方ですね。

広島城の歴史

鯉城とも呼ばれる広島城
鯉城とも呼ばれる広島城

私の住む広島市の中心部の近くに広島城址公園があります。コロナ禍の中、「ひとり散策」に出掛け、リフレッシュしてきました。原爆投下前までは、天守をはじめとする城郭建築が点在していたそうですが、現在のものは1958(昭和33)年以降の再建だそうです。

「彦根城築城400年祭」「熊本城築城400年祭」で、「ひこにゃん」「くまもん」が登場して国民のアイドルになったのは10余年前でしょうか。

広島城は、毛利元就(「三本の矢」の逸話が有名)の孫の輝元が1589年に築城し、1600年、城主となった福島政則(秀吉の子飼い)が増築、そして、1619年に徳川秀忠の命で浅野長晟(ながあきら・赤穂の浅野内匠頭の本家筋)が入城。以後、広島城は浅野家12代250年の居城となり、昨年2019年は「浅野氏入城400年」と銘打って、時代行列・講演会・ミュージカルなど、さまざまイベントが行われました。

浅野長晟公の入城400年を記念した幟が、市内のいたる所に掲げられました
浅野長晟公の入城400年を記念した幟が、市内のいたる所に掲げられました

歴史に思いを馳せ、広島城址公園を巡る

お堀のコイ。このお堀を遊覧船が運行しています
お堀のコイ。このお堀を遊覧船が運行しています

広島城址にある護国神社は、1956(昭和31)年に移設復興されたもので、うちの娘たちの幼い頃の節目の年には、お参りしたものです。

広島城は別名「鯉城」と呼ばれており、護国神社は広島カープも必勝祈願する神社です。また、大日本帝国軍の最高統帥機関である「広島大本営」が日清戦争指揮のため、1894(明治27)年に設置されたそうで、今はその礎石のみが残っています。まさに「夏草や つわものどもが 夢の跡」です。

広島城は、日本100名城に選ばれており、名古屋城・岡山城と並んで「日本三大平城」といわれています。街歩きの延長で気軽にその城址公園に入れるのです。

私は、その天守閣を外から眺めるだけで、広島城には上ったことはありません。実は、私は高所恐怖症なのです。50代の頃に信州の松本城の天守閣に上ったことがありますが、急勾配の階段をどうにか上った後、降りるのが大変でした。昔の人はあの装束でよくぞ上り下りしたものだ、とつくづく思いました。それが天守閣に上った最初で最後です。

浅野長晟(あさのながあきら)公は、広島城入城した翌年の1620年、別邸の庭園を築成し、こちらも「大名庭園100選」に選ばれています。「縮景園(しゅっけいえん)」と名付けられ、今年で築成400年です。市の中心部近くにあり、都会の中の緑豊かな庭園として市民に親しまれています。茶会やお祭り、「こも巻き※」など、1年を通じてさまざまな季節感溢れる行事が催されます。コロナ禍で休園の時期もありましたが、高齢者は入園無料ですので、たまに出掛けてゆったりと時を過ごして楽しんでいます。

※「こも巻き」とは、江戸時代から大名庭園で行われてきた害虫・マツカレハの幼虫を除去する方法のこと。

縮景園御門
縮景園御門
縮景園全景
縮景園全景

1970(昭和45)年の「70年安保闘争」のとき、全国の主な大学は研究室も講義室も一部の学生に占拠され、夫はこの縮景園の芝生で学生さんたちと車座になって講義をしました。
今のような「オンライン講義」の存在しない遠い昔話で、隔世の感がありますが、お庭の静寂と優美さは今も昔も変わっていません。

 

■もっと知りたい■

とし古

祖母は60歳の頃、針仕事や寺参りを日課にしていました。母は70歳の頃不自由な体で家族のために働き趣味の書道教室にも通っていました。そして私はいま八十路を歩いています。体力・知力は衰えを感じますが考える事・感じる事は昔と変わらないと思っています。死ぬまでにやっておきたい事に色々チャレンジしたいです。

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