中村久子|20歳、自立。見世物小屋で「だるま娘」に
2024.01.142022年05月08日
苦しいのは自分一人じゃないよ
さだまさしさん「生きることを諦めない」幸せの捉え方
多くの名曲を世に送り出し、ライブやテレビでは軽妙なトークでファンを魅了し、小説家の一面も持つ、さだまさしさん。日本を次々と自然災害が襲った2018年、精力的に被災地を回ったさださんが、当時語った信念と、苦境にあっても幸せをつかむ極意とは。
苦難のときの応援団になるために有名にしてもらったんだと思う
2018年は、今までの僕の人生の中でも、一番大変なスケジュールでしたね。理由は、へき地医療や災害救援でがんばる人たちを支援しようと3年前に立ち上げた財団法人「風に立つライオン基金」の活動です。
このところ災害が多いでしょう。僕らの財団としては、災害が起きると「とにかく現地へ行って応援しよう」と動くわけです。この夏だけでも、豪雨で被災した愛媛県の大洲、西予、宇和島、広島県の三原、坂町小屋浦、岡山県の総社、真備へ、「がんばれー」と義援金を持って行きました。その後、総社と小屋浦へはチャリティで歌いに行き、地震で大きな被害が出た北海道のむかわ、厚真、安平も回りました。
東日本大震災の後、被災地へ歌いに行くと、喜んでくださる方が多かったんですね。そのとき、「そうか、こういう苦難のときの応援団になるために、さだまさしは有名にしてもらったんだな」と気付かされました。ヒット曲もこういうときのためにあると考えると、今がさだまさしの使いどきだなと思って。よし、使おう!と。自分のことだから、遠慮なく使うので、その分時間はなくなるけれど、これまで45年も歌わせてもらったことへの恩返しのつもりでやっています。
でもね、被災した人の本当の痛みを、僕は理解できるはずがないわけで、たかが歌で何の役に立つんだろうと思うこともありますよ。「ありがとう。元気が出たよ」と言われても、「ほんとに?」って思わず聞くときがある。それでも笑顔や歓声をもらうと、やっぱりお役目なのかなと思うし、できるだけのことをすればいいやと、今では開き直りましたね。
35億円の借金を背負っても、30年かけて完済できたワケ
デビューして46年。これまで辞めようと考えたことは、いくらでもありますよ。僕はヒット曲のたびに、さんざん叩かれてきましたから。
「精霊流し」で暗いと言われ、「雨やどり」で軟弱と言われ、「関白宣言」で女性蔑視と言われ、「防人の詩(さきもりのうた)」を出したときは、戦争映画の主題歌だったから、「右翼思想だ」とまで言われました。それで、「僕が何を歌っても伝わらないんだな」と嫌になってしまって、28歳のときに中国へ逃げたんです。
中国は、祖父母や父母が青春を過ごした地。そこで長江の流れに沿って人々と街、歴史をフィルムに収め、ドキュメンタリー映画「長江」を作りました。この映画は父の念願でもあったから、製作総指揮は父が務めたんですが、製作費がどんどん膨らんで、最終的には金利を入れて35億円の借金を背負い込むことになりました。とんでもない額ですよね。
でも僕は自己破産するのは怖くて、考えることもできなかった。もう決死隊というか、明日、会社がつぶれるかもわからないけど、「完全にダメと言われるまで返させてくれー」って逃げたんです。銀行も「こいつは返せる」と思って僕に貸したんだろうから、きっと返せるはずだと、すがるしかなかったですね。
僕には歌って稼ぐしか方法がないですから、年100回以上コンサートを行い、ひたすら返済して、丸々30年かけて返し終えました。
一番大切なのは、笑っちゃいながら生きられる強さを持つこと
銀行への返済が終わっても、個人的な借財はありましたから、完全に借金がクリアになったのは、やっと最近ですね。だから老後のお金は、これからがんばって稼がないといけない。
いつ認知症や大きな病気になってもおかしくないし、死んだ後に自分で棺桶に入って、自分で墓に入るなんて人は一人もいないですから、誰かの世話になるわけでしょう。せめて、そのためのお金は残さないといけないなと。
僕らの世代以降は、年金がそんなにしっかりあるわけじゃないから、計画通りに老人ホームに入るだけの資金を持ち、年金だけでどうにかやっていけるって人は、とても少ないと思うんですよ。
だけど、僕はあんまり深刻に考えないようにしているんです。この先、どんどん厳しくなっていって、笑うしかないような老後っていうのも楽しいのかなと、開き直っているところがありますね。
だいたい自分の人生を計画通りに仕切っていくって考え方は、ちょっと傲慢ですよ。それは、東日本大震災のときに教わりました。だって誰も想像していないことが起こるわけでしょう。これから30年以内に東京で震度7の地震が起こる確率が30%。間もなく東海地震も起こるといわれているじゃないですか。どうしますか?
大きな自然災害が起きたとき、今まで自分が積み重ねてきたものなんていうのは、叩き壊されるわけですから。それでも生きていけるだけの精神力を、むしろ養っておいた方がいいと、僕は思います。笑っちゃいながら生きられる強さってものを持つこと。それが一番大切なんじゃないかな。
「ポケットの中をよく探せよ」幸せをいっぱい入れて持ち歩いているのだから
「老後の幸せ」とみんな呪文のように言うけれど、僕は幸せって虹みたいなものだと思っています。雨が降って初めて虹が出るように、不幸せという言葉があって初めて幸せというものが見えてくる。幸せっていうのは、あるようでないし、ないようであるものなんです。
これは僕の考え方だけど、生きている人間はみんな、ポケットにいっぱい幸せを入れて持ち歩いているんだよね。ところが、上から不平や不満をどんどん詰め込むから、いざポケットに手を入れたら、不平不満しか出てこなくなる。だから「ポケットの中をよく探せよ」って話をよくするんです。
だいたい生きているだけでも苦しいじゃないですか。お釈迦様のすごいところは、生きていることは苦しいことだって発見してくれたことです。苦しいのは僕だけかなって思うくらい、つらいことはないですよ。
「そうか、人生が苦しいのは当たり前なんだ」と思うことで、幸せの捉え方はうんと変わってくる気がしますね。だから、何か苦しいことがあっても、諦めないこと。生きることを諦めずにいられたら、それが一番幸せなんだと僕は思います。自分を諦めてしまうところから、不幸せは始まるんですから。
今、僕の希望は、高校生たちです。「風に立つライオン基金」では、高校生のボランティア・アワードをしていて、2018年に僕が賞をあげたのは、病気で頭髪を失った子のために、髪の毛を集めてウィッグを寄付する活動をしている女子高生でした。
それから、豪雨に遭った総社市では、女子高生が「私たちにできることはありますか?」と市長にメールして、すぐに「市役所に手伝いに来てください」と返信を受け、千人超の高校生がボランティアに集まったんです。
彼らの行動力は日本を変えるんじゃないかとワクワクするし、その思いを受け止め、つなげられる大人でありたいと、僕は思っています。
さだまさしさんのプロフィール
1952(昭和27)年 長崎市で誕生。本名、佐田雅志。
1955(昭和30)年 3歳でヴァイオリンを始める。
1965(昭和40)年 小学校卒業後、ヴァイオリン修業のため単身上京。
1968(昭和43)年 東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校の受験に失敗し、國學院高等学校に入学。
1972(昭和47)年 國學院大学中退後、体調を崩して帰郷。友人の吉田政美さんとグレープ結成。
1973(昭和48)年 「雪の朝」でデビュー。翌年、「精霊流し」がヒット。
1976(昭和51)年 グレープ解散後、ソロ活動開始。以降、「関白宣言」「北の国から」など数々の名曲を放つ。
1981(昭和56)年 監督・主演映画「長江」上映。この映画製作で35億円もの借金を負い、以後30年かけて完済する。
1987(昭和62)年 8月6日、長崎で平和コンサート開催。2006年まで毎年続けた。
1996(平成8)年 長崎県民栄誉賞受賞。
2001(平成13)年 初小説『精霊流し』を発表。以降、『解夏』『眉山』などを刊行。
2006(平成18)年 元日に「年の初めはさだまさし」(NHK総合)放映。その後、「今夜も生でさだまさし」として定期的に放映。
2015(平成27)年 財団法人「風に立つライオン基金」設立。
2016(平成28)年 「高校生ボランティア・アワード」を初開催。以後、毎年開催している。
2018(平成30)年 デビュー45周年を迎える。
2020(令和2)年 通算46枚目、2年ぶりとなるオリジナルアルバム「存在理由~Raison d'être~」を発表
取材・文=五十嵐香奈(ハルメク編集部) 撮影=中西裕人
※この記事は雑誌「ハルメク」2019年1月号に掲載された記事を再編集しています。
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