脳は退屈が大嫌い。楽しみながら生きましょう!

歌手・加藤登紀子さん!ひとりの時間も予想外の失敗も楽しんで

歌手・加藤登紀子さん!ひとりの時間も予想外の失敗も楽しんで

公開日:2025年08月16日

2025年に歌手生活60周年を迎える加藤登紀子さん。「80歳を過ぎた今、すごく調子がよくてハッピーな気持ち」と笑います。寂しさやつらいこともプラスにひっくり返して明るくせっせと生きる“おときさん”流の秘訣とはーー。

2024年12月で81歳になりました

75歳のとき、突然ひざが動かくなるという経験をして以来、体のバランスのとり方に注意を払ってきたという加藤さん。「筋肉を上手に使えるようになったからか、声もよく出るようになりました」

旧満州で未熟児として生まれて、終戦を迎えたのが1歳8か月。2025年が戦後80年ですから、私の人生はそのまんま戦後の日本の歩みと重なっています。貨物列車に乗せられて命からがらの引き揚げを経験し、小学校に入学したのが1950年。当時の日本はまだ占領下でした。その翌年に占領が解けて、日本は“これから自由な国をつくるんだ”というスタートラインに立ったわけです。

思い返せば、私たちの小学校、中学校、高校時代ってむちゃくちゃ自由だったんです。学校の先生たちは民主主義に慣れていなくて、“自由ってどうすればいいの?”とわからないながらも自由であろうと一生懸命でした。

あれは高校時代。生徒みんなで「制服を着るのは嫌です」と主張したら、先生が「そうか、それなら自由でもいい」と言って、着たくなければ制服を着なくていいことになりました。でもあるとき、私が明るい花柄のブラウスを着て登校したら、「おまえの服装はなんだ、もうちょっと考えろ」とか言われちゃって(笑)。自由であることがまだ少し下手というか、みんなでああでもないこうでもないと“自由のレッスン”をしている感じでしたね。

だから私たちの世代って、意外と自由度や主体性が高いわけです。この国はどんどん開かれて自由になっていくんだという気持ちですごくがんばった世代であり、明るい未来を期待した世代でもある。ところが今はそうじゃなくて、徐々に天井に近付いているみたいに息苦しくなって、いつの間にか自由の減ったつまらない社会を生きているのかもしれない――そう感じることが増えてきました。

頭の中で砂時計をさかさにする

何だか鬱陶(うっとう)しくて先が見えない今の時代を乗り越えるには、これまで通りではうまくいきません。戦後、時代の砂時計をひっくり返して新しい未来を切り開いたように、今もう一度、砂時計をさかさにして、停滞した時間を動かしてみることが大事だと思います。

それは一人一人の人生も同じです。年齢を重ねて、生きにくさを感じるとき、先々が不安で悩むとき、頭の中で砂時計をカチッとさかさにするみたいに、これまでの常識や思い込みをひっくり返してみると、残りの人生をもっと前向きに生きられるんじゃないか。そう思って書き上げたのが、最新エッセー『「さ・か・さ」の学校 マイナスをプラスに変える20のヒント』です。

例えば、怒りたくなったときやネガティブな感情で心が乱されそうになったとき、そこにブレーキをかけるために「ああ面白い」と大きな声で笑ってみる。あるいは人にSOSを出すときに、悲しそうな顔で「どうか助けてください……」と頼むのではなく、なるべく明るく元気よくお願いする。

そんなふうに固定観念をひっくり返したり、物事を反対から見たり、さかさに発想する癖をつけておくと、つらいことや悲しいことにもしなやかに対応でき、ラクに生きられると思うのです。

自分を相手にどう暮らしていくか

最近よく考えるのは、人間は誰しも「最後はひとり」ということです。私は2002年に夫を見送り、3人の娘たちはそれぞれ独立。7年前には母が101歳で旅立ちました。そうした状況で経験したコロナ禍は、ひとりの時間をどう使うか、これから先、自分を相手にどう暮らしていくかの練習になりました。

コロナ禍でコンサートは中止になり、誰かとごはんを食べに行くこともなく、完全にひとりになって実感したのは、脳は退屈が大嫌いということ。何もすることがないというのが、脳にとって一番ストレスなんですね。だから私は新聞の切り抜きをしたり、手間のかかる料理を作ったり、洋服のお直しをしたり、毎日せっせと生活しようと決めました。ちょっとしたことでも“これをやらなきゃ”ということがいっぱいあると、脳はワクワクするものです。

老後を迎えたとき、男性よりも女性の方が一般的に元気なのは、なんだかんだいっても女の人は家事をこなしてよく動いているから。仕事がなくても、ひとりでいても毎日「何だか忙しいのよ」って言いながら暮らすのは、すごく大事なワザだと思います。

料理に裁縫、「何だか忙しいのよ」って言いながら暮らしたい

私の母も忙しいのが好きな人でした。母はかつて洋裁の仕事をしていて、年を取ってからも好きな生地を買ってきては「これを全部使い切るまで死ねない」と言っていました。ボタンも糸もいっぱいあって「ママ、200歳まで生きても使い切るのは無理よ」なんて笑っていたんですけどね。今は裁縫道具も全部、私がもらって大切に使っています。

小学生の頃から母を手伝って洋服をほどいたりしていたから、私も針と糸と布を使う仕事は得意なんですよ。魚を三枚におろすみたいに洋服を解体して、袖だったものを身頃にしたり、襟だったものを袖につけたり。想定外のことを考えると脳も喜んで動き出します。

父が生前「80歳を超えるとしんどくなる」と言っていましたが、今の私は心身の調子がよくて、すごくハッピーな気持ちです。私の場合、48歳で乳がんが発覚し、50代で体力がガクッと落ちてすごくショックを受けたんですね。そこから、お風呂あがりに冷水シャワーをしたり、骨盤体操をしたり、自分なりの健康法を続けてきたのがよかったのかなと思います。

昨年、自宅で洋裁中に布の上で滑って転び、右ひざが動かなくなったときは“ダメかも”と思いましたが、半月くらいで治りました。そんな予想外の失敗や事故も、退屈が嫌いな脳は楽しんでいるはず(笑)。どんな困難も「なんて面白いんだろう」とプラスに変えて、せっせと生きていきたいですね。

加藤登紀子さん80年の歩み

  • 1943年 旧満州(中国東北部)ハルビン生まれ。
  • 1946年 日本に引き揚げ、小学校入学前から京都に住む。
  • 1956年 中学1年生から東京へ。
  • 1959年 東京都立駒場高校入学。
  • 1965年 東京大学在学中に日本アマチュアシャンソンコンクール優勝、歌手デビュー。
  • 1966年 「赤い風船」で日本レコード大賞新人賞。
  • 1969年 「ひとり寝の子守唄」で日本レコード大賞歌唱賞。
  • 1971年 「知床旅情」で日本レコード大賞歌唱賞。
  • 1972年 当時刑務所に服役中だった学生運動のリーダー藤本敏夫と結婚、長女を出産。その後3女の母に。
  • 1981年 夫・藤本敏夫が千葉県鴨川に移住し「鴨川自然王国」設立。
  • 1983年 映画「居酒屋兆治」に高倉健の女房役で出演。
  • 1987年 「百万本のバラ」リリース。
  • 1988年 ニューヨーク カーネギーホールで公演。
  • 1992年 宮崎駿監督「紅の豚」で声優としてマダム・ジーナを演じる。フランス芸術文化勲章シュバリエを授章。
  • 1997年 WWFジャパン顧問およびWWFパンダ大使に就任。
  • 2000年 国連環境計画親善大使に就任。
  • 2002年 夫・藤本敏夫が死去。
  • 2006年 FUJI ROCK FESTIVALに初出演。11年から毎年出演。
  • 2017年 母・淑子さんが101歳で死去。
  • 2022年 ウクライナの被災者支援アルバム「果てなき大地の上に」リリース。
  • 2023年 毎日芸術賞受賞。
  • 2025年に歌手活動60周年を迎える。

『「さ・か・さ」の学校 マイナスをプラスに変える20のヒント』

加藤登紀子著/1650円/時事通信社刊
80代の今も国内外を飛び回る加藤さんが「困った時はまず笑ってしまおう」「危ない橋を渡ろう」「素晴らしい嘘をつこう」など逆説的元気の秘訣を説く。

取材・文=五十嵐香奈(ハルメク編集部)、撮影=中西裕人

※この記事は、雑誌「ハルメク」2025年1月号を再編集しています。
 

HALMEK up編集部
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