
自分の尿モレタイプはどれ?
たまに尿モレがあっても、だましだまし過ごされている方も多いのでは? けれど一口に尿モレと言っても症状によってタイプはさまざま。そこで自身の尿モレのタイプがわかる簡易診断チャートをご紹介!
公開日:2025年06月09日
101歳(取材当時)の今も福島市で一人暮らしをしながら、化粧品会社ポーラの販売員として働く堀野智子(ほりの・ともこ)さん。「お客様がたった一人になったとしても、この仕事は続けたい」と話します。堀野さんを動かす原動力、そして毎日を明るく、豊かに生きる秘訣を聞きました。
1923(大正12)年、福島県生まれ。女学校を卒業した後、電電公社(現在のNTT)の交換手やきものの仕立てなどの仕事を経て23歳で結婚。結婚後は3人の子どもを育てながら果樹園の手伝いや生命保険の訪問営業で働き、39歳でポーラ化粧品本舗(現・ポーラ)の化粧品販売員に。44歳で営業所の所長になり、84歳で累計売り上げ高が1億円を達成。2023年、100歳のときに「最高齢の女性ビューティアドバイザー」として、ギネス世界記録に認定された。101歳の現在(取材当時)も現役で仕事をしている。著書『101歳、現役化粧品販売員 トモコさんの一生楽しく働く教え』(ダイヤモンド社刊 1540円)を発売
ある日の昼下がり。「今日も来たの、ごはんあるよ。ほれどうぞ」という柔らかな声が聞こえました。顔をほころばせて庭に遊びに来た猫にエサをあげる、その声の主は堀野智子さんです。
堀野さんは101歳(取材当時)。現役で化粧品会社ポーラの販売員として働いています。夫は堀野さんが82歳のときに亡くなり、子どもたちは福島を出てそれぞれ家族を築いています。猫との交流は、一人暮らしに癒やしを与えてくれるひとときです。
「この年齢で仕事をしているのが珍しいみたいで驚かれますが、私にとっては普通のこと。ただ、その日1日できることを懸命にやって、毎日続けてきただけ」と話します。
若い頃に比べて足腰は弱ってきましたが、仕事の日は7km離れた営業所までバスで通っています。一日一日を健やかに、楽しく。そんな日々を支えているのは規則正しい生活です。
朝は必ず6時半に起きて歯磨きや洗顔をすませ、1時間かけて肌のお手入れとお化粧をします。まずは水で10回顔を洗って汚れをとりのぞきます。次に、朝用のクリームを塗り、日焼け止め、下地、ファンデーションを重ねていきます。丁寧に保湿をすることで、ふっくらと艶のある肌に仕上がります。眉を整え、チーク、口紅をつけたら完了。
「朝は、ごはんを食べる前に必ずお化粧をしています。外出する予定がなくても日焼け止めは欠かしません」
健やかな体をつくるために食事は自炊です。朝、昼、晩の主食はご飯で、量は150gと決まっています。
「量らなくても茶碗によそった感じでわかります。おかずは昨晩の残り物や佃煮などを。3食、同じおかずが続いても何とも思いませんよ。食べるものに困った戦時中を知っていますから」。胃腸を整えるために、朝食後の乳酸菌飲料と夕食後のヨーグルトも日課の一つです。
化粧品の販売員歴は61年目ですが、その前にもいろいろな仕事を経験してきました。最初の就職は電話局(現・NTT)での電話の交換手でした。当時の電話は交換手が接続用ケーブルのプラグを、電話をかけた人・かけられた人の双方のジャックに差し込むことで回線が接続されて通話ができる仕組みでした。「どれだけ速く正確に処理できるか、が交換手の腕の見せ所。毎日懸命に働きました」
夜勤明けの日は、朝8時半に仕事を終えたら走るように家に帰ります。今度はきものの仕立てが待っていたからです。手先が器用な堀野さんのもとには、呉服店などからどんどん注文が入ってきました。「大変だったけれど、いただいたお賃金を母に渡すのもうれしかった。昨日の私より上達したい、という、自分にとっての働く喜びと信念を知った原体験でした」
そうするうちに縁があって23歳のときに結婚。家庭に入り、子育ての日々が始まります。結婚相手はやさしい人でしたが、予想外なことがあったと言います。
「主人は人付き合いのよ過ぎる人でね。仕事が終わると夜の街に繰り出し、全部ツケで部下に飲ませ食わせするんです。給料日になると主人の行きつけのお店のママさんたちが我が家に来て会計をするので、給料袋はあっという間に空っぽ」
当の本人は、翌朝、玄関に給与明細だけが入った給料袋を置いて素知らぬ顔で「行ってきます」と出勤します。あるとき、「いったいどういうつもり?」と聞くと、「うん、そうだなぁ。泥棒でもしてくるしかないか」と返事が返ってきました。
「そんなふうに言われたら怒る気もなくなりました。当時、主人は、夜の街でキレイな女の人を見る機会もたくさんあったんでしょうね。私の顔を見ながら『あのね、女性には身だしなみってもんがあるんだよ。口紅ぐらいつけなさい』と言われたことも。こっちは子どもを育てるのに手いっぱいなのに……と思ったのと同時に、“お化粧か、私もキレイになりたい!”という思いがあふれてきてね。この仕事を始めた背景には、その時の主人の言葉もあるから悪く言えないのよ」
給料袋の件が重なるうちに、「この人を頼ってもダメだ」と腹を決めた堀野さん。家で子どもたちを育てながら、生活費を稼げる仕事を、と、すぐに知り合いから薬のアンプルを入れる箱を作る内職を紹介してもらいました。
さらに子どもたちが全員学校に行くようになると、堀野さんの働き方も変わりました。友人の誘いで、生命保険の営業職員になったのです。一軒一軒、玄関をノックして飛び込んで、商品を販売する――望んで始めた仕事ではなかったそうですが、ここでも堀野さんの仕事の信念が発揮されます。
「声色や声の大きさ、どんな言葉をかけるか。営業はね、一言目が大切なんです。知らない人の家に入るときは、まず『ごめんください。あら、玄関のお花がキレイですね。もしかして奥さんが活けられたんですか?』と、話のきっかけをつくってね。そうすると相手は、悪い気はしないじゃない? この人の話をちょっと聞いてみようかしら、と受け入れてくれるんです。
そうやって工夫を重ねると売り上げも伸びましてね。その頃には夫も昇給していたので生活費に事欠くことはなかったんですが、私が、自分の足で稼ぐことの面白さを知ってね。これはいいなって」
保険営業の仕事に醍醐味を感じてはいたものの、一生の仕事とまでは思えず、何かが違うと感じていた堀野さん。1年働いた頃、盲腸で入院したことを機に退職。転機はすぐに訪れました。外出したときにばったり会った友人のご主人がポーラの化粧品の営業所を始めて、販売員を募集していると耳にしたのです。
以前、夫に言われた言葉が頭に残っていたこともあり、その日のうちに営業所に行き、詳しい仕事内容などを聞いてきました。
「ポーラって、私の中では特別な憧れの存在だったんです。というのもね、きものの仕立ての仕事で知り合った奥様がとってもキレイで。人づてで『あの人はポーラの化粧品を使ってるんだって』と聞いていたから」
家に帰り夫に相談すると、「いいけど俺の知り合いのところには行くなよ」と一言。そこで堀野さんは県営住宅に営業に行くことにしました。昭和37年、日本は高度経済成長期まっただ中でした。
県営住宅は市街地から遠く、近所に化粧品を売っているお店はありません。集合住宅なので、主婦たちも一か所に集まっています。保険の営業職員時代の経験と、堀野さんの人柄、そして「家にいながら化粧品が買える」という主婦たちのニーズが重なり、仕事は波に乗りました。
「行きにはぎっしりと化粧品が詰まっていた鞄は、帰りにはすっからかんになって、やりがいを感じました。それに、お客様から『堀野さんから聞くと、使ってみたくなる』と言われると、ますますやる気がわくじゃないですか。当時は月賦のお支払いができたので、欲しいけど一度に買えない方には月賦で買えることを説明してね。月賦は月に1回、集金でお客様のお家を訪問するので、関係性が強くなっていくんです」
口コミでどんどんお客さんが増え、入社1か月後には顧客は50人になりました。「月に1度会う関係性がよかったんでしょうね。家族にも言えない打ち明け話もたくさん聞いたものです」
仕事はやりがいがあり、営業成績に伴って給料も増えていく。化粧品を使うことで自分も、お客さんもどんどんキレイになる。化粧品の科学技術も進歩して新商品の勉強会に行くのも楽しい――どんなことがあっても「この仕事を続けよう」と覚悟ができました。
「子どもが手離れするまでは忙しい毎日でした。お客様の中には、『買うかどうかは夜、主人が帰ってきたら相談します』という方もいらっしゃったので、連絡がくれば、夜でも商品を持ってお客様のもとへ行きます。子どもたちの夕飯は、出先から公衆電話で出前を頼んでね」
44歳で営業所長を任されると、収入はさらに増え、息子の大学費用も堀野さんが出しました。営業所長は15年続けましたが、59歳のときに辞めて販売員に戻ることに。
「定年退職をした夫から、『俺が車でお客さんのところに送迎してやるから、毎日家をあけるのはやめてくれ』と言われたんです。主人が寂しいって言うのだから、しょうがない。方法を変えれば仕事は続けられるならいいやと思って」
その夫は堀野さんが83歳の頃にがんで亡くなり、既に子どもたちも福島を離れていたので20年ほど一人暮らしを続けています。
化粧品の販売を始めて61年がたち、かつての顧客たちは病気や亡くなった方がほとんどです。「年をとるのはしょうがないけれど、突然の別れは慣れません。お客様に電話すると、『母は先日亡くなりました』『今は施設に入っています』と言われることも。とても寂しいです。自分自身の年も思い出されます」
それでも、今も堀野さんを待つ顧客はいて、今年度の売り上げも前年度に比べて25%も増えました。つい先日は、ひょんなことから新しいお客さんもできました。
「整形外科に行くためのバスの中でよく顔を合わせる人とあいさつから始まり、次第によく話すようになったんです。ある日、『手が荒れていて困っている』と言うので、『もしよかったら』とハンドクリームをプレゼントしたら、えらく気に入ってくれてね。100歳を超えても新しいお客様と出会えるのは幸せなことですね」
最後に、堀野さんに仕事を続ける理由を聞きました。
「自分が薦めたもので目の前の相手がキレイになって喜んでくれる、それがうれしいの。だってね、終戦を迎えたとき、私は22歳だったの。当時は食べ物に困る暮らしが続き、おしゃれや化粧どころじゃない世の中でした。
戦争中のあの色のない世界を知っているので、化粧品を手にしたときの衝撃は忘れられません。お客様が『キレイになりたい』と思えて、私がその願望を叶える一助になる。なんて素敵な仕事なんだろう、毎日そう思っています」
取材・文=児玉志穂(ハルメク編集部)、撮影=キッチンミノル
※この記事は、雑誌「ハルメク」2024年11月号を再編集しています
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