「さつまいもの天ぷら」横山利子さん
2024.09.302022年02月03日
通信制 青木奈緖さんのエッセー講座第3期第3回
エッセー作品「ゆるやかなお別れ」熊谷智恵子さん
「家族」をテーマにしたエッセーの書き方を、エッセイストの青木奈緖さんに教わるハルメクの通信制エッセー講座。参加者の作品から青木さんが選んだエッセーをご紹介します。熊谷智恵子さんの作品「ゆるやかなお別れ」と青木さんの講評です。
ゆるやかなお別れ
洗い物の手を止めて耳をすました。ゆっくりとかすかに、畳をする音が聞こえる。つづいて廊下に出たぴたぴたという音がして、台所の入り口に、四つんばいの母が姿を現した。私を見ると、ぺたんと座った。困った、と思う。
「お母さん、もう寝る時間な。お父さんのとこ戻って。」
「いや、あの人嫌いなの。あなたがいいの。」
みるみるうちに大きな目に涙がたまっていく。仕方ない。「お茶飲む?」「うん。」母の目がぱっと輝く。
「おいしい。冷たくて、すごくおいしい。」
夢中で飲み干すと、ありがとね、と言って居間の方へ這っていく。
「お母さん、もう寝るんな。私もこれからお風呂入っちゃうし。」
「行っちゃうの? 誰もおらんくなるの?」
「うん、だからお父さんのとこで寝てな。」
母は、ふと私の顔をしげしげと見つめた。
そしてつぶやいた。
「懐かしいような……とても大切な人のような……」
この時、どうしてこの言葉の意味に気付かなかったのか。私は自分の鈍さが恨めしい。
その何年も前から、母は探し物をするようになっていたが、そのうち自分で打っていたインシュリン注射のやり方がわからなくなった。
手順を口で教えながら、私は不安に苛立つあまり、声を荒げてしまうようになった。
母に対して声を荒げるなんて生まれて初めてで、そんな自分に絶望した。
その度に母は、「すいません。ごめんなさい。わからないの。」と泣いて謝った。
ある晩、お風呂から上がった私は、廊下で四つんばいの母に出くわした。
「お兄さん、お姉さん。」と、何ともかわいらしい声で呼びながら、這っているのだ。
「お母さん、こんなとこ這ったりしないで。」
「家(うち)に帰りたいの。」
「部屋に戻って。」
「どこ? どこだかわからないの。」
私はおろおろして泣きそうになった。まさかこんなことになるなんて。しかしそれからは、夜になると頻繁に同じことが起きた。
お兄さんお姉さんって、一体誰のことだろう。母がそう呼んでいたのは父の兄姉だけだが、何故今更彼らを呼ぶのか腑に落ちない。母にとってはひたすら気を遣う相手でしかなかったのに。
この時期、母はよく泣いた。居間に座っていても、天を仰ぐようにしたり、周囲を見回すようにしてさめざめと泣く。
「どうして泣くの。」と聞くと、「わからないの。なぜだか泣けてくるの。」と言った。
食事を目の前に出すと、「いいの? 食べていいの? ありがとね。」と言って、一生懸命食べる。
小さい子供のようだが、決して下品になることはなく、ただかわいらしいとしか言いようがない。 「おいしかった。ありがとね。」
お碗を置いてまた泣いている。「どうして泣くの。」「わからないの。ただありがたくて、涙が出るの。」と、はらはら涙をこぼした。
泣いていないと思うと、天井や壁を見回して、「こんな立派な御殿だとは知らなんだ。」と、何度も感心している。
突然、私の脳裏にひらめくものがあった。
「お母さん、ここどこ?」
「お姉さんの家(うち)だら?」
私は打たれたように、「私は誰? この家、誰の家なの?」
「お姉さんと、」
母は私を指さし、続いて父の部屋の方をさして、「お兄さんの。」と言った。
その瞬間、私は大声で泣き出していた。
母もつられて泣き出した。2人でしばらくわんわん泣いていた。
この時の気持ちを、何故だかはっきとは思い出せない。ただ、あんな悲しさは、それまで知らないものだったと思うだけだ。
少し時間が経つと、あの頃母がよく泣いていた理由がわかる気がした。
ある日、自分が知らない家にいて、どうしてそこにいるのかもわからなかったのだろう。どんなに心細かったことか。
それから6年経つが、束の間、母が本来の母に戻った時があった。
再び自分を見失う前に、今のうちにと、必死な私の口をついて出た言葉は、「お母さん、私のこと好き?」だった。
「好きだよ、大好きだよ。」即座に母は答えた。
兵隊さんが、最期に「お母さ―ん」と呼んで死んでいったという話が、とても身にしみる年齢に、私もなった。
青木奈緖さんからひとこと
母親の介護をテーマとした作品ですが、この枚数できっちり書き込んでいて見事です。
おそらく書き始めたら止まらないほど、材料があるはずですし、感情もあふれるほどと拝察します。そこを、きちんと取捨選択して作品としてまとめられているということは、すべてを客観的に捉えられている証です。
たくさんの人がこの作品を読んで勇気づけられることでしょう。介護をしているとき、「自分は一人ではない。同じような思いをしている人が他にもいる」と思えることが救いになります。
ハルメクの通信制エッセー講座とは?
全国どこでも、自宅でエッセーの書き方を学べる通信制エッセー講座。参加者は毎月1回家族の思い出をエッセーに書き、講師で随筆家の青木奈緖さんから添削やアドバイスを受けます。書いていて疑問に思ったことやお便りを作品と一緒に送り、選ばれると、青木さんが動画で回答してくれるという仕掛け。講座の受講期間は半年間。
現在第4期の参加者を募集中です。申込締切は2022年2月7日(月)まで。詳しくは雑誌「ハルメク」2月号の誌上とハルメク旅と講座サイトをご覧ください。
■エッセー作品一覧■
- 青木奈緖さんが選んだ4つのエッセー第2期#6
- 青木奈緖さんが選んだ3つのエッセー第3期#1
- 青木奈緖さんが選んだ3つのエッセー第3期#2
- エッセー作品「ぬいぐるみの関係」相部草子さん
- エッセー作品「赤い半額シール」加藤菜穂子さん
- エッセー作品「ゆるやかなお別れ」熊谷智恵子さん
- エッセー作品「チビ」浜三那子さん