今野由梨さんと考える「自分の役割とできること」#2
空襲から17年…アメリカで見つけた初めての応援者
空襲から17年…アメリカで見つけた初めての応援者
公開日:2023年02月06日
今野由梨(こんの・ゆり)さんプロフィール
ダイヤル・サービス株式会社代表取締役社長。1936(昭和11)年、三重県桑名市生まれ。津田塾大学英文学科卒業。69年にダイヤル・サービス株式会社を設立。本業の傍ら政府の諮問委員や地方自治体の委員などを50以上受任し、2007年に旭日中綬章を受章。
「自分には誰かを守る役割がある」という思い

※インタビューは2021年10月に行いました。
私は6人姉妹の2番目です。姉や妹たちは昭和初期に「いい子ね」と言われるいわゆる普通の女の子。
私は、姉や妹たちと全然違う子でした。
料理、洗濯、掃除、裁縫、どれも苦手。母も諦めて、私には何もさせませんでした。だからでしょうか。写真が趣味だった父は、姉妹の中で私だけをいつも撮影旅行に連れて行ってくれました。
男の子が一人もいなくて寂しかったせいもあるかもしれません。そんな父の気持ちを察して、私も撮影の邪魔をしないよう、疲れたとか、お腹がすいたとか言ったり、駄々をこねたり泣いたり、絶対にしませんでした。
姉や妹たちを見ていると、なんとなく頼りなく思え、実際姉や妹がいじめられて泣いて帰って来ると、私がいじめた相手のところへすっとんでいって、代わりにケンカをすることも。
その頃から自分には「誰かを守る役割」があると思い始めていたのですね。
「企業や国を成長させていくのは男の役割」に違和感…

私は成長するにつれ、東京の4年制の大学に進んで学びたいと思うようになりました。「田舎の女子が東京の大学なんて」と、周囲からは大反対されました。
しかし、「誰かの役に立てる役割」のためには、国の中心である東京でなければならないと、反対を押し切って進学しました。大学では、大学新聞の編集に夢中になり、マスコミを第一志望に就職活動を始めましたが全敗。一社も採用してくれませんでした。
面接で「一番欲しくないのは君のような女だ」と言われ「じゃ、どんな女だったらいいんですか」と聞くと「タバコ買ってきて、はい! お茶、はい!……君はそういうタイプじゃないだろう」と。
「何か言うと自分の意見を言う。君の意見なんか誰も聞きたくないんだよ。この企業を、この国を成長させていくのは男の役割。言われたことをニコニコはいはいと、君、やれないだろう」と。
どの会社も私を必要としないなら、自分で会社を作るしかないと思うのに時間はかかりませんでしたが、すぐに作れるわけもない。10年後に必ず起業しようと決意しました。しかし、生きていくにはとりあえず収入を得なければなりません。
「一日四毛作」で猛烈に働いた若かりし日々

大学新聞の取材でお世話になった出版社で校正のアルバイトをいただき、それから広がっていった仕事がきっかけで、作家の三浦朱門(みうら・しゅもん)さん、曽野綾子(その・あやこ)さんご夫妻に出会うことができました。
三浦さんの口述筆記もやらせていただきました。当時の生活を、私は「一日四毛作」と呼んでいます。
朝起きると、雑誌などの原稿書き、9時から12時までは三浦さんの口述筆記、午後はテレビのレポーター、夜は東京・新宿の歌声喫茶「灯(ともしび)」というところで舞台演出のアルバイト。歌手の人が風邪で休むと、私が代わりに歌ったりして。収入は何とかなりはしたものの、もう何をやっているのか訳がわからない(笑)。
夜中の1時2時に帰ってきて、次の日は早朝の仕事。寝る暇がなくて、一度、新宿歌舞伎町の銭湯で倒れて警察のお世話になったこともあります。
こんな生活を続けて4年。本当に起業できるのだろうかと思っていた頃、三浦・曽野ご夫妻から、「ニューヨーク世界博覧会(1964年4月~65年10月開催)」の日本館でコンパニオンを募集している、と教えていただきました。
100人募集のところ3000人の応募。誰のつても紹介も無い私が受かるわけがないと思いましたが、なんと合格。
私にとって採用試験で初めてのこと。このときは私が人とちょっと違っていることが幸いしたのかもしれません(笑)。
日本館では呼び込み、お客様への焼き鳥やすき焼きのサービスまで、振り袖にたすき掛けで何でもやりました。
憎きアメリカのはずが…アメリカで出会った元軍人の応援者

そんな毎日を送っていたとき、車いすに乗ったアメリカのマスコミの偉い方が日本館の取材にやってきました。
顔を見るなり「日本のどこから来たのか」と聞かれ、「三重県の桑名です」と言い終わらないうちに、その方の顔色が変わり、車いすから私を抱きしめたのです。「よく生きていてくれた、よくアメリカに来てくれた」と、泣き出さんばかりでした。
彼は、私が暮らしていた桑名をB29で空襲した元アメリカ空軍の士官だったのです。戦争が終わり、アメリカに引き揚げてからも、来る日も来る日も、あの夜のことが頭から離れず、精神的な苦痛から下半身が動かなくなり、車いすの人生になっていたというのです。
私は改めて考えさせられました。戦争とは何か、戦勝国とは? 敗戦国とは? 私の役割とは?
そうした思いと、弱い人々のために起業したいという私の夢を彼に話しました。彼は「応援する」と言い、私がアメリカに滞在する1年半の間、アメリカ中の地位ある人たちの集まりに連れて行ってくれ、私を紹介してくれました。
当時、日本では女性である私が起業の夢を語ると、変人扱いされましたが、アメリカの人たちは、みんな心から応援し励ましてくれました。それまで“あの憎きアメリカ”だった人たちが、日本の人たちより、私の思いに共感し、応援してくれることが、出会い、体験してわかったのです。
正当なサービス料も受け取れず始まった「電話育児相談サービス」

この出会いがきっかけで、当時まだ日本では普及していなかった電話相談というサービスがアメリカにあることも知り、大変驚かされました。そして目標通り、決意から10年後の69年に、ダイヤル・サービス株式会社を設立したのです。
日本で初めての電話育児相談サービス「赤ちゃん110番」はスタートと同時に電話回線がパンクするほどの大反響。でも実は、当時の法律、規制に妨げられて、正当なサービス料も受け取れず、スポンサー企業を1社も見つけられない中でのスタートだったのです。
高度成長期のひずみで苦しむ若い母親を放っておけず、採算のめどが立たなくてもとにかくサービスはやめるわけにはいかない。その気持ちだけでした。
当時の電電公社(現NTT)からは、電話回線をパンクさせたことで、何度も呼ばれて始末書を書かされました。
でも考えてみると、電電公社は我が社の電話相談で通話が増えたことで、思いがけない大きな収益が上がっているわけです。
電話相談にかけてきた通話料を半分我が社にバックしてもらうのはどうだろうと、電電公社に交渉に出向きましたが、「女の経営者ほど嫌いなものはないんだ。法律を変えてまでそんなことができるか!」とけんもほろろ。
その後、必死でスポンサー探しに駆け回り、ようやく1社が決まりました。しかしそのとき「担保は今野さんだ。今野さんが倒れたりしたら、即契約は終わりだ」と言われました。
余命宣告が何度も…私は死んでいる暇はないのです

実は私は会社をつくった直後に、お医者さんから悪性がんのために、余命宣告を受けていたのです。その宣告を受け、病院から出た瞬間は、世界から色が消えてしまったように、目の前が真っ白になりました。その不思議な光景は今でも忘れることはありません。
そのとき私が思ったことは、私は泣いたり、病気で倒れたりしてはいけない、病気であることを人に知られてもいけないということでした。やっと手に入れたスポンサー契約を失って、国中の多くの人々を助けられなくなってしまうわけにはいかないと。
それから50年以上、何回も余命宣告を受けましたが、私は今も生きています。病気という私個人のことにとらわれている時間はありません。死んでいる暇なく、私の使命を全うし続けなければなりません。
次回は、何歳になっても目標を持ち続けることについてお話しします。
取材・文=原田浩二(ハルメク編集部)
※この記事は「ハルメク」2021年12月~2022年2月号に掲載された「こころのはなし」を再編集しています。
【特集】今野由梨さんと考える「自分の役割とできること」
- 苦しい時代からこそ自分を見つめ直し、役割を考える
- 空襲から17年…アメリカで見つけた初めての応援者
- 苦難にも感謝!「好奇心」と「使命感」を持って生きる
人生を生き抜くヒントを読む!折れない心の作り方
50代は人生の折り返し地点。特に女性は更年期や子どもの独立、会社での立場の変化など、“人生の変化”が訪れる時期です。これまで雑誌ハルメクで掲載したインタビューの中から、樹木希林さんや瀬戸内寂聴さん、元NHKアナウンサーの内多勝康さんなどの、特に「生きるヒント」が詰まったインタビューを厳選してお届けします。
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