6泊7日、車の旅
2022.10.26ある男
戦後生まれの男がいます。たいして大きな事をしたわけでもなく、さりとて悪いこともしていないけれど、とりあえず人さまと同じようにほどほどにはがんばって生きています。この男、冬の日本海、港町、演歌、縄暖簾がお気に入りの昭和な男です。
あるとき男は気が付きました。日々アクセク働いてきた、子供たちも成人し、学生として他の都市に出て暮らしている。もうこの先は自分の生き方を見直す時だな、と。
その年の仕事納めの日、男は妻に言ったのです。「明日から3日ほど旅に出かけるからな」と。
そして大晦日に帰宅し普通に年末を過ごし、新年を迎えました。
その翌年も、そのまた次の年末も、決まったように男は旅に出かけて行きました。
勘の鈍い妻もいささか何かあるなと思いはじめました。しかし、もう長年連れ添った男との年月を考えれば多少のいざこざやよそ見をする時があっても仕方がないと腹をくくっていました。普通の夫婦と違ったのは、長年単身赴任で別々に暮らす時間が長く人生を俯瞰することになれていた夫婦だったのです。
妻は妻なりに多少心がざわつきもしますが、決定的なことを突きつけられるまでは何も考えまい、揺るがずにいようと思っていたのです。
人生には授業料という月謝も必要だし、少しばかりのやけどをしたり、煮え湯を飲むこともあり得るし、男のよそ見やいたずら心は人生最後の出来心として飲みこんでやってもいいかもしれない、しかし妻の立場を脅かしたり、理不尽な態度を取った時は目にもの見せてやるとチラチラと鬼の顔をのぞかせてもいました。
お誘い
年末に男が出かけるようになり5年ほど経ったときです。さぁ、今年(2021年)も出かけるのかなと思っていた矢先、男が妻に言いました。
「おい、今年は一緒に出掛けないか」……もう青天の霹靂状態、ありえない、なんだこれは。
妻は言いました「私が一緒に行ってもいいのですか、長い髪の女性が待ってでもいるのではないですか」
男はニヤニヤして「髪は長くはないな、はっきり言えば丸坊主だ。来ればわかるよ」
丸坊主
男は日本中を仕事で歩いていると、時折気に入った空気感の街に出会うことがありました。いくつかの街がある中で日本海沿いの鳥取が気になりはじめました。ある年の仕事納めが終わったら是非ゆっくり歩いてみようと思っていました。そして一人で旅に出たわけです。
鳥取の街には、普通の銭湯と同じように温泉があります。男は年末の鳥取を歩き、温泉に入り一年の自分を振り返る想いで湯船につかりました。一人の旅の開放感、仕事とはまた違った自由な境地を味わい、温泉から出るとビールを飲みたくなりました。温泉の目の前に一軒の寿司屋があります。なにげなくその店に入り、ビールを飲み、寿司を食べ、ビールが日本酒にかわり、夜が更けていきました。
さて、男から誘われた妻が半信半疑で一緒にやってきたのは鳥取の寿司屋です。男にしては、もう5年も年末に通い続けるお気に入りの寿司屋です。カウンターの中には坊主頭の威勢の良い寿司屋の御主人、妻はびっくりです。
てっきり鳥取の街には男を待つ髪の長い女がいると思い込んでいたのですから、まさか坊主頭の寿司屋だったとは……。
この5年、年末に一人訪れて、温泉を楽しみ日本海の海岸で詩吟を唸り、演歌を聴いて縄暖簾をくぐる開放感を求めて旅していたのはこの鳥取であったのか。日本海の波濤(はとう)と演歌の伴奏が聞こえてくるような心持ちです。ああ、年末日本演歌特集の始まりです。
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