「やまゆり園事件」犯人と交流を続けた生物学者#3

最首悟|「共に居る」愛、「雑然に生きる」という意味

最首悟|「共に居る」愛、「雑然に生きる」という意味

更新日:2023年01月31日

公開日:2022年12月30日

最首悟|「共に居る」愛…「雑然に生きる」ということ

重度の障害がある娘さんと生活をする生物学者の最首悟さんのインタビュー。最終回は、体が思うように動かなくなったとき、昨日のことを忘れてしまうようになったとき、自分の生き甲斐をどう見つけるか、について。その答えのヒントは「愛」にあると言います。

最首悟(さいしゅ・さとる)さんプロフィール

1936(昭和11)年、福島県生まれ、千葉県にて育つ。東京大学理学系大学院博士課程中退。同大教養学部助手を経て、予備校教師、和光大学教授を歴任。現在、和光大学名誉教授。『新・明日もまた今日のごとく』(くんぷる刊)など著書多数。

「ただそこに居る」「生きている」ということ

「ただそこに居る」「生きている」ということ

※インタビューは2021年7月に行いました。

突然ですが、バイオテクノロジー(生命科学)で人間の平均寿命が125歳になったら、みなさんは何に生きがいを見出しますか。

仕事や子育てが終わった頃なら、趣味に没頭するかもしれません。お金に余裕があれば、旅行に行く人も多いでしょう。しかしそうした趣味もそう長くは続きません。

例えば30年ほどで飽きてきたら、その後は何を心の支えにしますか。加えて、もし体が不自由になったり、認知症になったりしたら……。

先日、娘の星子(せいこ)が 45歳(取材当時)の誕生日を迎えました。といっても本人はどこ吹く風という様子です。

ダウン症の星子は言葉が話せず、目も見えません。トイレに行くこともできず、食べ物はかまずにすべて丸呑みです。鉢植えの花のようだと思います。三日水を与えなければ多分枯れます。生きがいの問題で言えば、何かをしたいという希望がありません。

でもそんな星子を見ていると、何をするか、できるかということが問題なのではなく、ただそこに居る、生きているということの意味を問われているような気がしてきます。

人間は「頼り」「頼られ」の関係

人間は「頼り」「頼られ」の関係

第1回で「人間」という言葉についてお話ししましたね。「人間」はもともと「じんかん」と読み、人と人の間、関係を指しました。間というには2人以上の人が必要です。

人間は、相手がいてこそ成り立つ。「あなた」が先にいて、そこでようやく「私」がいる。私はこうした人のあり方を、あなたという二人称によってできる関係性、「二者性」と呼んでいます。

しかし「あなた」という言葉は不思議です。英語では相手を指す言葉が“you”だけなのに対し、日本語には「お前」「あんた」などたくさんあります。
中でも最も広く使われているのが「あなた」ですが、「貴方」とも書かれるように丁寧で、“you”のように対等ではなく相手を立てる表現です。

ひょっとしたら「立てる」というのは「盾にする」のかもしれません。相手を表に立てて自分は裏に隠れ、何かあればその人を盾にして頼る。利己的な行為です。でもそれは相手にとっても同じです。

相手にとっても「あなた」と呼ぶべき人、頼る人がいることで自分がいる。頼り頼られる関係です。

共に生きる。生きる支えになるものこそが「愛」

共に生きる。生きる支えになるものこそが「愛」

星子は私にとってその象徴的な存在です。星子を育て、お世話をするうちに、私は自分の存在意義を感じられるようになりました。星子も私を頼り、私も星子に頼っています。

そして私は星子を「あなた」として立てています。

星子はえらいのです。なぜえらいのか、それは私にないものを持っているからでしょう。では何を持っているのか。一見すると、私の方が多くを持っているように見えるかもしれません。私は話せますし、目も見えます。

しかし同時にこうも言えます。星子は「話せない世界」「見えない世界」を持っていると。

星子は音楽を好み、聴きながら時々喉をクックッと鳴らします。話すことも見ることもできる私はさまざまな楽しみを知っていますが、そんな星子を見ていると、彼女が持っている音楽の楽しみを自分は知らないと感じます。そこには私が知らない世界の豊かさが広がっています。

それはどんな相手に対しても同じことが言えるでしょう。認知症の人もそうです。寝たきりの人もそうです。まだ病気になっていない人も含めて、みんなその人の世界を持ち、「あなた」として立てられる存在なのです。

誰もがそのままでよく、頼り頼られながらそこに居る。共に生きている。私はそれこそが二者性における「愛」であり、生きる支えになるものだと思います。

共に生きる。生きる支えになるものこそが「愛」

もっとも、それは欧米の愛とはちがいます。

まずキリスト教の愛は、神から降り注ぐものです。愛を表現する“I love you”という一文も、主語と目的語がはっきりしています。「愛している」と、誰が誰を愛しているのかもあいまいな一文すらなかなか口にしない文化圏にいる私たちからすると、ずいぶん様子が異なります。

独立した個人を重んじ、言語上でも主語と目的語を明示して愛を示す欧米に対し、日本の愛はもっと漂うような、ぼんやりとした存在です。

「私はあなたを愛しています」と面と向かって言われると、「何を今さら」とかえってしらけてしまうようなものです。

関西では母親が子どもに対してよく、相手のことを指して「自分」と呼びますが、相手と自分が独立せずにつながっているような、そんな感覚が日本の愛です。わざわざ口に出さなくても共に居る。そんな愛なのです。

そうした愛のあり方、人と人の関係は、尊厳死をめぐる議論にも表れています。

アメリカではジョゼフ・フレッチャーという生命倫理学者が「IQ20以下は人ではない」と述べ、1980年代には事故で植物状態になったナンシー・クルーザンという女性の延命治療をめぐり、裁判が行われました。

ナンシーという個人の尊厳を理由に、人工的な栄養補給をやめるように病院に求める彼女の両親と病院との訴訟は連邦最高裁判所まで上訴され、最終的には生命維持装置をつけて植物のように生きることは彼女の希望ではないと、彼女の生命維持装置は外されました。

それに対し日本では今も、家族が植物状態でも生きていてほしいと思う人は多い。何もできなくても生きていてほしい、共に居たいのです。

澄んだもの、濁ったものを受け入れて「雑然に生きる」ということ

澄んだもの、濁ったものを受け入れて「雑然に生きる」ということ

今の社会で大切なのは、この「共に居る」愛だと思います。

第2回目では、「津久井やまゆり園」で45人を殺傷した植松聖(うえまつ・さとし)青年との交流をお話ししましたが、植松青年の姿勢はこの愛の逆です。

「より高く、より速く、より強く」を求め、未来のためと称して社会の役に立たない者を切り捨てる考え方です。そうして彼は障害者を、中でも話すことのできない者を狙ってナイフで殺傷しました。

だからこそ私は、「ただ共に居る」愛が重要だと思うのです。その愛は、相手の能力や職業を問いません。将来何かができるようになるとか、輝かしい未来も必要としません。言葉も要りません。

ただ、今、この場に共に居て、明日もまた穏やかでありたいと願う。そこには「幸福」と呼ぶほどの華やかさはありませんが、心が満ち足りるような「和やかさ」が漂います。生きる上での大きな心の支えや安心感になります。

それは「雑然に生きる」というようなものかもしれません。「雑然『と』生きる」というと印象が悪いですが、頼り頼られ、澄んだものも濁ったものも受け入れて、互いに心を開きながら共に歩んでいく。そんな「雑然『に』生きる」姿勢が必要だと思うのです。

最後に、心を開くための祈りのような、子守歌のような、おまじないをみなさんに送りましょう。「ゆ」ったり「ゆ」るゆるとお「湯(ゆ)」に浸かった気分で読んでみてください。

心を開くおまじない

ゆっくり
ゆるむ
ゆったり
ゆるぐ
ゆらぐ
ゆする
ゆさゆさ
ゆうゆう
ゆたか
ゆらゆら
ゆめ

取材・文=大矢詠美(ハルメク編集部)
※この記事は「ハルメク」2021年9~11月号に掲載された「こころのはなし」を再編集しています


「やまゆり園事件」犯人と交流を続けた生物学者・最首悟さん《全3回》

  1. 障害のある娘を育てて悟った、頼ること頼られること
  2. 「自己責任」という言葉にとらわれ過ぎずに生きる
  3. 「共に居る」愛…「雑然に生きる」という意味
雑誌「ハルメク」
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