「やまゆり園事件」犯人と交流を続けた生物学者#2

最首悟|自己責任という言葉にとらわれ過ぎずに生きる

最首悟|自己責任という言葉にとらわれ過ぎずに生きる

公開日:2022年12月30日

「自己責任」という言葉にとらわれ過ぎずに生きる

2016年、障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で入居者、職員計45名が殺傷された事件。自身も障害のある娘を持つ最首悟さんは、やまゆり園事件の犯人から手紙が届き交流を始めます。「彼は寂しい人だと思います」と語る最首さんのインタビュー第2回。

最首悟(さいしゅ・さとる)さんプロフィール

1936(昭和11)年、福島県生まれ、千葉県にて育つ。東京大学理学系大学院博士課程中退。同大教養学部助手を経て、予備校教師、和光大学教授を歴任。現在、和光大学名誉教授。『新・明日もまた今日のごとく』(くんぷる刊)など著書多数。

事件の2年後、突然拘置所から手紙が届いた

事件の2年後、突然拘置所から手紙が届いた

※インタビューは2021年7月に行いました。

2016年7月26日、神奈川県立の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に入居していた19人が刺殺され、26人が重軽傷を負うという事件が起きました。

犯人は元職員の植松聖(うえまつ・さとし)青年(当時26歳)。障害者を狙った、あまりにむごい事件です。植松青年は20年に死刑が確定し、現在は東京拘置所にいます(取材当時)。

植松青年から最初に手紙が届いたのは18年4月でした。 

おそらく彼は、面会に来たジャーナリストに、障害のある娘と暮らす私に手紙を書くことをすすめられたのだと思います。

7月に手紙を返信し、それから毎月手紙を出していますが、2021年2月からは「不在」で返ってくるようになりました。

不在とはどういうことか、と東京拘置所に電話で問い合わせましたが、不在としか答えられないと言われました。以来、手紙は投函せず、それまでも公表していた神奈川新聞に掲載しています。植松青年や彼に賛同している人に届けばと思います。

「より高く、より速く、より強く」という思想

「より高く、より速く、より強く」という思想

植松青年からの返信で繰り返し語られているのは、自立できない障害者は周囲を不幸にして社会保障費を圧迫し、生きていても仕方ないということです。

植松青年はこう言います。

大学教授という高度な人材を育てる立場の私が、社会の役に立たない障害者である星子を育てるのは矛盾ではないかと。星子の世話をしている私の妻の負担についてどう思うか、面倒を押し付けているのではないかと。

植松青年は障害者のことを「社会の廃物」と呼びます。彼にとって障害者は「人」ではなく、迷惑な「物」なんです。

その一方で彼が憧れているのは優れたもの、知的なものです。

私はこれまで2回、植松青年と面会をしました。弱々しい青年だと最初は思いました。目を合わせず、ぼーっとしている。とても人を19人も殺したようには見えません。

しかし2回目はやや違いました。目が合い、はきはきとした口調で話します。そして彼は私に、大学の名誉教授にはどうやったらなれるのかと尋ねました。どうやら彼は名誉教授を優れた人間の職だと思い、関心があるようです。

そこにあるのは「より高く、より速く、より強く」の思想です。社会の役に立たない者や自立できない者は不要で、生産性や優れたものに価値を置く考え方です。

行き過ぎた「自立」が「孤立」を生む

行き過ぎた「自立」が「孤立」を生む

善意が煮詰まった正義。やまゆり園事件(相模原障害者施設殺傷事件)について考えていると私はそんな言葉が浮かびます。植松青年は犯行前に衆議院議長宛てに犯行声明を届けています。

そこには「障害者は不幸を作ることしかできません」と書かれ、自分がこれから行う行為が「人類の為にできること」を考えた答えだと記した上で、逮捕後の監禁は2年までにし、新しい名前の本籍や美容整形、5億円の金銭援助を求めています。

障害者を殺すことが社会をよくすると信じ、褒められることだと思っているのです。

そうして彼は7月のその日に犯行に及びました。新宿のホテルでコールガールの女性を呼んで滞在し、深夜に新宿からやまゆり園に向かったのです。

現場で彼は、入居者が話すことができるか確認しながら殺しました。途中からはその区別もしなくなったようですが。

寂しい人だと思います。私は彼が「自立」が「孤立」になった人だと思います。過剰なほどに自立に執着して役に立たないと思った人間関係を切り捨て、その結果周囲との関係を築けず孤立したのです。

そして孤立した先に絆を求めたのが国家だったのでしょう。彼には母親が公認する婚約者もいたそうです。なのに、なぜコールガールを呼んだのか。誰も彼の支えになれなかったのか。そのことを考えると、ふと涙が出そうになります。

相手を役割や能力ではなく、人として見てほしい

相手を役割や能力ではなく、人として見てほしい

植松青年の姿は、現在の日本の在り方とも重なっています。「情けは人のためならず」ということわざがありますね。本来は人に情けをかけておくと、結局は自分のためになるという意味ですが、現在では人に情けをかけて助けることはその人のためにならない、だから情けはかけるべきではない、と解釈している人がほぼ半数だそうです。

自立を重んじ、余計な人間関係は捨てる、無縁社会です。私はここに、無理に「閉じた」国になろうとした日本の限界が露呈していると思います。

私は元来、西欧は「閉じた」世界、日本は「開いた」世界だと思います。

「閉じた」世界は神を頂点とした論理が構築され、人の始まりも終末も聖書で定められています。文法でも主語や目的語が明確にされ、私を指す「I」は大文字、アイファーストというわけです。人と人の輪郭がはっきりした、自立した「個人」が存在し、その権利を重んじる世界です。

一方、日本は「開いた」世界です。神々の物語はあれど人の歴史の始まりも終わりもはっきりとは書かれていません。話し方にしても、主語を省略して話すことができるあいまいな言葉で、人と人が独立していないような、悪く言えば「だらしがない」、でもそのことで「和」が成り立っているともいえます。

1950年に発表された『母よ嘆くなかれ』は象徴的です。

アメリカの女性作家で、ノーベル文学賞受賞者でもあるパール・バックが自身の体験を描いた本で、夫が障害のある娘を受け入れられずに離婚し、その後も障害者である娘が人として扱われず、社会の外に置かれてしまうことを嘆きます。

一方、彼女が訪れた戦前の日本や中国では障害児がのびのびと暮らしていた様子が描かれています。それは人々が情けをかける世界です。

第二次世界大戦後、日本は戦前を反省して西欧のような、自立した個人の民主主義社会を目指しました。

しかし急に西欧型の閉じた世界を目指すのは難しく、それぞれの人の権利、つまり人権という考え方が根付かないまま人間関係の切り離しが進んで、自立をすることを求められているのが今の日本ではないかと思います。

そして自立できない人間を批判し、自己責任だと責め立てる。

ダウン症の娘・星子(せいこ)は話すことも、トイレもできません。それを教えることが親の責任ではないかと言われたこともあります。しかし責任というのはそう簡単に果たせるのでしょうか。

日本では組織の不祥事で責任を果たすというと、辞任という形で問題が終わったことになります。しかし、それでは問題自体は解決しません。責任はまだあるのです。

果たせない責任を引きずりながら、ありのまま共に生きる

果たせない責任を引きずりながら、ありのまま共に生きる

「すみません」という言葉は最近ではごく軽い謝罪の言葉になりつつありますが、本当は「済みません」、つまり問題が終わっていないということです。責任はある。しかし簡単にはとれないのでいまだ引きずっている。

人に対しても型にはめた教育で責任を済まそうとするのではなく、解決しない問題を引きずりながら、ありのまま共に生きていくことが大切だと思います。人の価値は役割や能力で測れるものではありません。相手を役割ではなく人として見てほしい、植松青年や賛同者に私はそう伝えたいです。

事件後、私は新聞の取材で彼を八つ裂きにしてやりたいと語りました。すると、2度目の面会で彼はその新聞を読んだのか、聞いたのか「八つ裂きはひどい」と言いました。私も自分で言っておいて、ひどいと思いました。

私たちはある言動に対して「ひどい」という、共通する感情を持つこともできる。

私が植松青年を「青年」と付けて呼びかけているのは、この共通の感情を持つことができる植松聖に対してです。私と彼にも共通の面があるのです。そこには言葉が届く希望があります。これからも返信を続けていこうと思います。

取材・文=大矢詠美(ハルメク編集部)
※この記事は「ハルメク」2021年9~11月号に掲載された「こころのはなし」を再編集しています。


「やまゆり園事件」犯人と交流を続けた生物学者・最首悟さん《全3回》

  1. 障害のある娘を育てて悟った、頼ること頼られること
  2. 「自己責任」という言葉にとらわれ過ぎずに生きる
  3. 「共に居る」愛…「雑然に生きる」という意味
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