【ラジオエッセイ】だから、好きな先輩45 ティナ・ラッツ
2024.12.172023年12月09日
随筆家・山本ふみこの「だから、好きな先輩」42
笑顔と美意識のモデル、ティナ・ラッツの美しい人生
「ハルメク」でエッセイ講座を担当する随筆家・山本ふみこさんが、心に残った先輩女性を紹介する連載企画。今回は、ファッションモデルの「ティナ・ラッツ」さん。モデル、ジュエリーデザイナー、そしてエイズのボランティア活動…美しく生きた女性でした。
好きな先輩「ティナ・ラッツ」さん
1950-1992年 ファッションモデル
米国生まれ。父はドイツ系米国人、母は日本人。60年代に来日。上智大学に在籍しながら、モデルとして広告や雑誌で活躍。22歳で渡英、結婚。2児の母となり、デザイナーとしても活躍したが、エイズにより41歳で没した。
シンプルで完成されたうつくしさ
ときどき、夜更けにとり出して眺めるファイルがあります。30年前に、友だちが送ってくれた雑誌「ミセス」の表紙と特別企画14ページのコピーです(1998年2月号)。
当時めずらしかったカラーコピー機を探して写しをとり、ファイリングしてくれました。
表紙で、輝く笑顔を向けているティナ。ティナ・ラッツ、あるいはティナ・チャウと記憶される彼女を、ここではティナと呼ぶことにしましょう。
ティナは1960年代後半から日本の高度成長期を象徴するかのように活躍したファッションモデルです。
人気絶頂期に渡英し、22歳のときロンドンで結婚。ふたりの子どもを育てました。
30代のティナは、ジュエリーデザイナーとなっていました。短い髪。ありきたりの装飾を排したスタイル。シンプルで完成されたうつくしさ。
ことに片耳だけにつける長く垂れ下がるピアスに目が釘付けになり、それはいまでも真似しています(わたしがすると、「片耳、ピアスがなくなってますよ」と注意される始末)。
シンプルなシャツやTシャツ、ケンゾーのはき心地のいいパンツ、カーディガンかあるいはネービーブルーのブレザーを身につけているティナがわたしのなかに存在しています。素材で云(い)えば、木綿、絹、カシミアでしょうか。
ティナがデザインした代表的な作品も……、水晶や天然の貴石を籐、竹と組み合わせるジュエリーです。繊細な竹籠にくるまれた水晶のペンダントは、日本的、古典的な美学をまとっているのでした。
今も時代を照らし続ける「何かをつくり出したい」という希い
夫のマイケル・チャウはビジネスパートナーでもあり、アーティストとして切磋琢磨する存在でしたが、夫婦としてのこころはやがて離れてゆきました。
あたらしい何かがはじまろうとしていたそのとき、ティナはエイズを宣告されたのです。治療薬の開発の見通しもなかったころのことでした。
「何かをつくり出したい」という彼女の希(ねが)いは、いまも時代を照らしつづけていたにちがいないのに。ティナはエイズのボランティア活動をはじめ、ことにエイズ患者たちの食事をサポートする仕組みをつくりました。そうしてうつくしいうしろ姿を残して、あの世へ歩いて行きました。
エイズ公表の勇気も晩年の活動も、ティナの笑顔と美意識とともにわたしは大事に胸のなかにしまっています。
随筆家:山本ふみこ(やまもと・ふみこ)
1958(昭和33)年、北海道生まれ。出版社勤務を経て独立。ハルメク365では、ラジオエッセイのほか、動画「おしゃべりな本棚」、エッセイ講座の講師として活躍。
※この記事は雑誌「ハルメク」2019年12月号を再編集し、掲載しています。