だから、好きな先輩37 活動家 ウィニー・マンデラ
2024.12.172023年10月14日
随筆家・山本ふみこの「だから、好きな先輩」35
活動家、ウィニー・マンデラ「目標を見失わない姿勢」
「ハルメク」でエッセイ講座を担当する随筆家・山本ふみこさんが、心に残った先輩女性を紹介する連載企画。今回は、活動家の「ウィニー・マンデラ」さん。ウィニーはネルソン・マンデラの妻で、抑圧の中でも自分の目標を見失わない志を持った女性です。
好きな先輩「ウィニー・マンデラ」さん
1936-2018年 活動家
南アフリカ生まれ。58年、反アパルトヘイト運動を率いるネルソン・マンデラと結婚。27年間投獄されていた夫を支え、自身も運動を牽引。90年に夫が釈放され4年後大統領となるも、96年に離婚。
「マイノリティ」問題を学び始めた日
ウィニー・マンデラ。
その名前は、日本人にとっては馴染みの薄いものかもしれません。けれども、ネルソン・マンデラの名は、聞いたことがあるでしょう。彼は南アフリカ共和国(以下、南ア)の人種隔離政策(アパルトヘイト)を廃止させた人物です。
ウィニーはネルソンの妻だった女であり、自身も反アパルトヘイトの闘士であります。
アパルトヘイトにわたしが関心を持ったのは、30歳のとき。当時、同い年のジャーナリストの友人が南アに通って、取材をつづけていたからです。
会うたびに熱っぽく語って聞かせてくれる友人を持たなかったら、わたしはいまも、アパルトヘイトという名の人種差別について、それに対する南ア黒人の怒りと悲しみ、たたかう姿を見逃していたかもしれません。
このときわたしは「マイノリティ(社会的少数者)」の問題について学びはじめていたのではなかったでしょうか。
アパルトヘイトの特殊性は、差別が国家の方針として行われたところです。
それは人口の圧倒的多数を占める黒人を抑圧、隔離する仕組みでした(「マイノリティ」とは数の問題ではなく、社会において権利や機会を制限されることを指すわけです)。
ウィニー・マンデラの生涯はアパルトヘイトとのたたかいそのものでした。活動禁止令によってがんじがらめにされながら長い歳月を過ごし、何度も逮捕され、投獄時には尋問と拷問が待ちかまえていました。
結婚し、ふたりの子どもをもうけた夫のネルソンも、反アパルトヘイト運動により反逆罪に問われ、27年ものあいだ刑務所に収容されていたため、ともに暮らしたのは6年余りだったのです。
絶望やあきらめはなく、目標を見失わない姿
2018年4月に死去するまで活動をつづけたウィニーは、釈放後に南ア第8代大統領となった(1994年)夫が求めた、白人と黒人の和解と共生を受け容れることができませんでした。やがてふたりは離婚することになりますが、つながりの途切れることはなかったそうです。
「直面する問題があまりにも大きいので、わたし個人がどうなるか、などとは考えていられません」
絶望やあきらめもなく、目標を見失わないウィニーの姿勢は、このところやけにわたしにもの思いをさせています。
随筆家:山本ふみこ(やまもと・ふみこ)
1958(昭和33)年、北海道生まれ。出版社勤務を経て独立。ハルメク365では、ラジオエッセイのほか、動画「おしゃべりな本棚」、エッセイ講座の講師として活躍。
※この記事は雑誌「ハルメク」2019年4月号を再編集し、掲載しています。