「何もなかった顔」をしてきた夫婦へ
熟年夫婦の違和感はいつから始まるのか──漫画家・野原広子さんが描く結末
熟年夫婦の違和感はいつから始まるのか──漫画家・野原広子さんが描く結末
公開日:2026年02月21日
「ある日、妻がいなくなった」その先に描かれるもの
『娘が学校に行きません ―親子で迷った198日間―』で40代で漫画家デビューし、『消えたママ友』『妻が口をきいてくれません』で第25回手塚治虫文化賞短編賞を受賞した漫画家・野原広子さん。最新作『うちのツマ知りませんか?』が、多くの読者を震撼させています。
熟年夫婦が迎える危機を淡々と描いた本作。
何の前触れもなく失踪した妻・ヨシ子と、「すぐに帰ってくるだろう」と高を括っていた夫。物語が進むにつれ、夫と妻のあいだに積み重なってきた、言葉にならなかった違和感が、静かに姿を現してきます。
ラジオ人生相談に集まる声が、生き方を映し出す理由
野原さんが紡ぐ物語の強みは、日常と地続きにあるようなリアルさと、予断を許さないストーリー展開です。それゆえ、読者の反応も非常に熱を帯びたものになるようです。
――まずは、これまで描いてこられた作品への反響から聞かせてください。
野原広子さん(以下、野原広子)
いつも賛否両論です(苦笑)。でも、最初に編集者と『賛否両論あるものを作ろう』と決めていたので、結果的には正解なのかもしれません。
『離婚してもいいですか?』などの“もやもや”シリーズは、男性側からは『こんなものを出すな!』と怒られ、女性側からは『よくわかる』と共感されました。実に対照的で、真っ当な反応です。Amazonのレビューも真っ二つに割れましたが、そういう作品のほうが、結果として長年読み継いでいただけるようです。
――『うちのツマ知りませんか?』は、ラジオの人生相談がヒントになったそうですね。
野原広子
そうです。午前に放送されている番組なのですが、高齢の方の相談も多く、実際の数人の方々のエピソードに肉付けをしていきました。
特に印象に残っているのは、回答者の先生に厳しく諭された相談者の女性が、受話器の向こうでしくしく泣いておられた回です。その声から『きっとこの女性は、これまで家庭生活を丁寧に守ってきた人なんだろうな』と想像を膨らませ、失踪する妻・ヨシ子のキャラクターづくりに生かしました。
熟年世代の夫は、実は妻に興味がない?
熟年夫婦のクライシスを扱った本作。読み進めるほどに息を呑む展開が待ち受けていますが、野原先生は現実のニュースからも着想を得ているといいます。
――熟年離婚に至る一番の要因は、どこにあると思われますか?
野原広子
私も熟年世代ですが、よく耳にするのは「会話がない」ということ。それ以上に深刻なのは、夫が妻に全く興味を失っている点です。関係性が冷え切った結果、妻の心理状態が危険な方向へエスカレートしてしまうこともあります。
本作で私が一番描きたかったのは、「何かが起こる前に、どうか自分の意見を言ってほしい」ということです。それは関係を壊すためではなく、自分を守るための言葉でもある。この物語には、「一線を越えてしまう前に踏み止まってほしい」という願いを込めています。
――50代という世代特有の背景も大きくて、昭和生まれの女性は親から「結婚したら一生添い遂げるもの」という価値観を刷り込まれて育っています。だから、どんなに理不尽でも、家庭を守ることが正解であり、離婚は簡単なことではない、という空気がありました。
野原広子
離婚する人は、思い立ってその場で踏みきるのではなく、日々モヤモヤしている中で、何かのきっかけがあり、「よしここだ!このチャンスを逃すか」と思って決める気がします。
これが昭和初期なら、「そんなことは考えちゃいけない。離婚は恥」という価値観の人が多かったかと。でも、今はどの世代でも、「安定した老後」なんてどこにあるのかわからないから、経済的にも精神的にも、いろんな準備をしておいた方がいいのかも…と言うと怒られてしまいそうですが(苦笑)
――実際に、今は共働きが当たり前になり、夫婦の役割も大きく変わりましたが、そのズレに一番戸惑っているのが、50代なのかもしれません。だからこそ、ヨシ子の心情を思うと、多くの女性が身につまされるはずです。
野原広子
妻が罪を犯してしまうようなニュースのコメント欄を見ると、意外にも「旦那さんがかわいそう」ではなく、「この奥さん、ずっと我慢していたんだな」という同情的な意見が多いんです。
ヨシ子も、息子が生まれ、家族としての日々を重ねる中で、さまざまなものを抱えていたのかもしれません。
ラジオの相談者も同様で、先生から「あなたも悪い。常に物事を人のせいにして生きてきたからだ」と一喝されていました。現状を人のせいにするのではなく、自分で腹を括る勇気を持つことも、一つの救いになるのではないかと感じました。
――本作のラストについては、読者のあいだでも反応が分かれていますね。女性からは「ほっとした」「爽快だった」という声もありました。
野原広子
今回も女性と男性で反応が分かれそうですよね。でも、レビューでも良いので、読んだ方が思いの丈を吐き出してくれるといいなと思っています。
漫画を描くことで、自分の中の葛藤が浄化される
自身の悩みや葛藤も、作品に昇華することで解消されることがあると言う野原さん。
――本作の読者からは、どのような声が届いていますか?
野原広子
いまだに時折、レビューではなく分厚いお手紙をいただきます。「私はもう諦めました。今は今で幸せです」と書かれていても、行間からは消化しきれなかった重い感情が伝わってくる。
最後に「お返事は、いりません。書くだけで満足しました」とあっても、やはりモヤモヤを背負ったまま生きていかれるのかな、と切なくなります。
――野原さん自身は、描くことで心が浄化されるような感覚はありますか?
野原広子
ありますね。デビュー作は娘の不登校の実体験でしたが、描くことでいい具合に浄化されました。それ以降、自分のことは描いていないつもりでも、数年後に読み返すと「あ、これ自分のことだ!」と気付くことがあって。
やはり身の回りで起こったことや、心に深く残った断片をチョイスして描いているのだなと実感します。
――最後に、今後の展望を聞かせてください。
野原広子
今はパン屋さんでバイトをしてみたいんです。ただ「早起きだよ」と知人に言われ、それだと無理かなあ、なんて迷っているところです(笑)
また、コミックエッセイについては、毎回「これが最後の一作かな」と思って挑んでいますが、また何か心に響くものがあれば描きたいと思います!
取材・文=山崎伸子









