2021年11月99歳でこの世を去った寂聴さん#6

瀬戸内寂聴さん最晩年の日々――秘書・瀬尾まなほさん

公開日:2023.11.16

更新日:2024.01.04

2021年11月、99歳で逝去された瀬戸内寂聴さん。秘書として10年以上にわたり、一番近くで最晩年の日々を支えてきた瀬尾まなほさんに、まなほさんだから知る寂聴さんの素顔や思い出、そして今なお心に残る寂聴さんの言葉を教えていただきました。

99歳は、何と長くて短い時間だろう

99歳は、何と長くて短い時間だろう
左/寂聴さん最後の自伝的長篇エッセー『その日まで』(講談社刊)。忘れ得ぬ人々や家族の記憶、自らの老いが綴られています。右/2017年6月から2021年11月までの共同通信社配信の瀬尾さんの連載をまとめた『寂聴さんに教わったこと』(講談社刊)

※インタビューは2022年3月に行いました

「九十九歳とは何と長い、そして何と短い時間であっただろう」――2021年11月に亡くなった作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは最後の長篇エッセー『その日まで』(講談社刊)で自身の生涯を回想し「充分、いや、十二分に私はこの世を生き通してきた」と綴っています。

秘書として10年以上にわたり、一番近くで最晩年の日々を支えてきた瀬尾まなほさんに、寂聴さんの素顔や思い出を語っていただきました。

瀬尾まなほさんのプロフィール

瀬尾まなほさんのプロフィール

せお・まなほ
1988(昭和63)年兵庫県生まれ。京都外国語大学英米語学科卒業後、寂庵に就職。2013年から秘書に。17年『おちゃめに100歳!寂聴さん』(光文社刊)がベストセラーに。困難を抱えた若い女性たちを支援する「若草プロジェクト」理事も務める。近著に『#寂聴さん 秘書がつぶやく2人のヒミツ』(東京新聞刊)、『今を生きるあなたへ』(寂聴さんとの共著、SB新書)他。

亡くなる前日も、先生は笑っていた

寂聴さんは昨年(2021年)9月末、風邪をこじらせて肺炎になり入院。10月初めに退院するも、数日後に心不全で再入院しました。かねてより「死ぬのは寂庵がいい」(寂庵は京都・嵯峨野に寂聴さんが結んだお寺兼自宅)と望んでいたといいますが、11月9日朝、病院で静かに息を引き取りました。秘書の瀬尾さんは、亡くなる前の様子をこう振り返ります。

「10月末に容体が急変するまで、先生は『早く退院したい』『寂庵に帰ってお酒を飲みたい』と言っていて、そのためにリハビリもがんばっていました。本人はもちろん、まわりにいる誰もがしばらくすればまた帰れるものと信じていたんです。

容体が急変する前日、私がお見舞いの帰りに『じゃあ、また明日来るね』と言うと『ありがとう』と。先生はとてもこまめに『ありがとう』と伝えてくれていましたから、そのいつも通りのやりとりが最後の会話になりました。

亡くなる前日も、もう先生は話すことができませんでしたが、私が2歳になる息子のことを面白おかしく話すと、口角が上がって笑った気がしました。いや、絶対に先生は笑ったと思います」

亡くなる前日も、先生は笑っていた
主のいなくなった寂庵。「ここをこの先どうするかはまだ何も決まっていません」と瀬尾さん。

「寂庵を保育園に」という夢

瀬尾さんは大学を卒業後、寂庵に就職。当時、寂聴さんは88歳、瀬尾さんは23歳でした。

その2年後、50代以上のスタッフたちが「90歳を超える先生は自分たちの給料を払うために働いてくれている、それは申し訳ない」と退職。「まなほちゃん、頼むね」と後を託された瀬尾さんの奮闘の日々が始まりました。

『その日まで』と同時に刊行された瀬尾さんのエッセー『寂聴さんに教わったこと』(講談社刊)に「この10年間で私が一番一緒に時間を過ごしたのは先生だと思うし、先生も私だと思う」とある通り、瀬尾さんは結婚・出産後も秘書を続けました。

「最後の頃、よく先生は『寂庵を保育園にしたい。子どもたちがここを走り回っているのもいいね』と言っていました。

男女不平等で女性がなかなか表に立てない時代を生きてきた先生は、子どもができたら仕事は続けられないと思っていたところがありました。でも私が息子を預けて仕事復帰したことで、“自分も保育園を作ってお母さんたちを助けたい”という気持ちに変わったのだと思います」

ただし、「具体的に私が死んだらこうしてね、ああしてね、というのは言ってくれなかったし、本人もはっきり決めかねていました。遺言書を書けと言われても、気持ちが変わるから書けない、というのが最後の最後まで本音だったと思うんです」と瀬尾さん。

亡くなるその日まで新聞や雑誌に5本の連載を抱えていた寂聴さんは、最後まで断筆することもありませんでした。

最後まで自分に見切りをつけない

最後まで自分に見切りをつけない
「しんどい、しんどい」とこぼしながらも、寂聴さんは毎日机に向かっていました。写真提供=瀬尾まなほ

「最晩年は連載を抱えていても、体力的にどうしても厳しくなって、『書くのがしんどい』『もうやめた方がいいのかな』ともらすことがありました。

秘書の立場で『でも先生、締め切りがあるからがんばってください』と言うと、『まなほにはわからないよ、このしんどさは』と返され、私はぐうの音も出ないといいますか……。それでも先生は『やっぱり書きたい』と現役であり続けたし、もっといい作品が書けるかもしれないと、99歳になっても自分で自分の可能性を信じていました。

遺言が書けないことも、断筆しないことも、ある意味では優柔不断といえるかもしれません。でも、最後まで自分に見切りをつけない、あきらめないということを貫き通した姿は、本当に見事だったと私は思います。

先生が亡くなって、みなさんからすごく惜しまれていますが、きっと本人は、最後まで連載を続けられて、“死ぬまで書いていたい”という願いを叶えたから、この世に何も未練はないのではないか、そう感じています」

97歳の年の差がある「最後の恋人」

97歳の年の差がある「最後の恋人」
2019年末に生まれた瀬尾さんの息子と。「先生は子どもの無垢さと純粋さ、無限の可能性をとても面白がっていました」写真提供=瀬尾まなほ

寂聴さんは95歳を過ぎてからも毎月、寂庵で「法話の会」を続けていましたが、コロナ禍で最後の2年は開催が叶いませんでした。

「先生は何といっても人が好き、おしゃべりが好きでしたから、法衣をビシッと着て人前に立って話し、参加者の方から反応をもらうことは活力になっていたと思うんです。法話がなくなると、外からの刺激が減って、『書くことがない』ともらすことが増えました」

そんな中で寂聴さんの活力源となっていたのが、瀬尾さんの息子の存在。寂庵に遊びに来るとなると夕方でもお化粧をし、原稿には「私の最後の恋人」と書いていたそうです。

「昨日できなかったことが今日はできている、そんな息子の成長過程は先生にとって新鮮で面白かったでしょうし、作家としても興味深かったと思うんです。唯一の親孝行じゃないですけど、先生に息子を見せられてよかったですし、97歳差の二人を見られたのは、私にとっても幸せでした。

息子は寂庵に来ると、いつも先生の部屋で隣に座って原稿用紙に絵を描いていました。先日も寂庵に連れてきたら、息子は真っ先に先生の部屋へ行きましたが、暗くて誰もおらず“あれ!?”となっていて、私も切なくなりました。でも先生は『死んだら、私がチビのことを守ってあげる』と言ってくれていたので安心しているんです」

瀬尾さんは、寂聴さんの言葉や後ろ姿から学ぶことがたくさんあったと語ります。

「自身の戦争体験から先生は反戦や反原発などの行動も起こしていました。『私がデモに参加したから社会が変わるわけではない。でも反対した人がいることは歴史に残るでしょう』と。実るか実らないかではなく、社会のため誰かのために自分の思ったように行動する、その教えを私も大切にしていきたいです」

97歳の年の差がある「最後の恋人」
「先生の好きな色は黄色。法衣は紫、黒、黄色と3色ありましたが、黄色を着た先生はとても華やかでした」撮影=篠山紀信

瀬尾さんの心に残る寂聴さんの言葉

瀬尾さんの心に残る寂聴さんの言葉

『私なんか』と言うな。
この世に一人しかいない自分に失礼よ

自分に自信がなく「私なんか」が口癖だった私に、先生は「自分を粗末に扱うなんて、自分に失礼よ」と。私の存在価値を認めてくれたようで、とてもうれしかったです。


人の言うことを気にする必要はない。
その人があなたの生活の面倒を見てくれるの?

先生の秘書として本を出版し、新聞や雑誌で連載を持つようになると、誹謗中傷なども起こって不安と恐怖に苛まれました。そんなときに言われた言葉。悪口を言う人を気にする必要はないと思えました。


自分の人生は一度しかない、
その一度を悔いなく愛していきましょう

99歳まで走り続けた先生のような生き方は私にはできないと思います。でもせっかく生まれたのだから、悲観的にならず、愛と情熱を持って自分の道を開いていきたいです。


結局、人は、人を愛するために、
愛されるために、この世に
送り出されたのだと最期に信じる。

『その日まで』より


取材・文=五十嵐香奈(編集部) 撮影=大島拓也

※この記事は「ハルメク」2022年5月号を再編集して掲載しています。

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