【ラジオエッセイ】山本ふみこ「だから、好きな先輩」
2024.12.242023年06月03日
随筆家・山本ふみこの「だから、好きな先輩」16
日本の映画史に多大な影響を与えた「高野悦子」さん
「ハルメク」でエッセイ講座などを担当する随筆家・山本ふみこさんが、心に残った先輩女性を紹介する連載企画。今回は、岩波ホール総支配人の「高野悦子」さんです。なりゆきのような感覚で「道」を歩き始めた、高野さんが日本の映画界に遺した功績とは…。
好きな先輩「高野悦子(たかの・えつこ)」さん
1929-2013年 岩波ホール総支配人
旧満州生まれ。大学卒業後、東宝に入社。映画監督を志し58年、パリに留学。帰国後はドラマの脚本、演出を手がける。68年、岩波ホール創設に伴い、総支配人に就任。世界の埋もれた名画の発掘、上映を続けた。
日本の映画史を強固なものにした「世界各国の映画をさがす旅」
これまでにこのコラムにご登場いただいた先輩たちには不思議な共通点があります。彼女たちが案外受動的に、なりゆきのような感覚で〈道〉を歩きはじめていることです。1968年に誕生した岩波ホールの総支配人として有名な高野悦子も、そんなひとり。
ホールの運営のみならず、「エキプ・ド・シネマ」(フランス語で「映画の仲間」の意)を立ち上げます。世界各国の名画を発掘・上映するこの活動が、現在のミニシアターの礎(いしずえ)となりました。
もしも、高野悦子の、映画をさがす旅がなかったら、日本の映画史は貧弱なものとなり、映画づくりを夢見るひとも激減していたでしょうね。
- 第三世界の名作の紹介。
- 大手興行会社がとり上げない名作の上映。
- 上映の実現しなかった名作の完全版での紹介。
- 日本映画の名作を世に出す手伝い。
「エキプ・ド・シネマ」上映作品としては、「大地のうた」三部作の三作目「大樹のうた」(上映ʼ74)、「ピロスマニ」(ʼ78)、「山猫」(ʼ81)、「伽倻子(かやこ)のために」(ʼ84)、「痴呆性老人の世界」(ʼ86)、「八月の鯨」(ʼ88)、「ジャック・ドゥミの少年期」(ʼ92)。まだまだ記したいのに……。
戦後、高野悦子さんの日本映画との出会い
高野悦子と映画との出合いは、ごく自然なものでした。
疎開先の富山から上京、日本女子大学に入学したのは敗戦の翌年(1946年)のこと。東京は焼け跡だらけ、食料事情は劣悪そのものでした。けれど高野悦子にとって、平和への、そして文化への渇望が何よりも大きかったのです。
当時日本映画界では、若き日の黒澤明(くろさわ・あきら)、今井正(いまい・ただし)、木下惠介(きのした・けいすけ)監督が作品を世に送りだし、戦前派の巨匠たる小津安二郎(おづ・やすじろう)、溝口健二(みぞぐち・けんじ)、五所平之助(ごしょ・へいのすけ)監督も健闘していました。
高野悦子はすぐに映画の魅力にとりつかれました。それがはじまりだったのです。
結びに、わたしの好きな逸話をひとつ。高野悦子が病を得た母の介護をしていたころのはなしです。仕事と介護の両立をめざして死にものぐるいの日々を過ごしました。
そんなとき、羽田澄子(はねだ・すみこ)監督の記録映画「痴呆性老人の世界」を観て、介護するまわりのひとばかりに気を遣い、母中心の介護をしていなかったことに気づいて実行に移します。母上は90歳で認知症から回復し、96歳で旅立つ日までしあわせに暮らしたのですって。
随筆家:山本ふみこ(やまもと・ふみこ)
1958(昭和33)年、北海道生まれ。出版社勤務を経て独立。ハルメク365では、ラジオエッセイのほか、動画「おしゃべりな本棚」、エッセイ講座の講師として活躍。
※この記事は雑誌「ハルメク」2017年8月号を再編集し、掲載しています。
>>「高野悦子」さんのエッセイ作成時の裏話を音声で聞くにはコチラから
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