私の人生の基盤になったもの

JAPAN SOCIETY 1いわれなき差別の中で

公開日:2018.10.13

夫の仕事に伴いニューヨークで海外生活がスタート。さまざまな国籍の人たちとの交流やボランティア活動への参加、その活動を通じて感じた人種差別など異文化体験を回顧します。今回は初めてのボランティア活動について綴ります。

We Japanese are ……

夫が勤める医科大学の別のラボに日本人の教授がいらした。各々の秘書同士が密に情報交換しているのは洋の東西を問わずあるようで、私たち夫婦が車を探していると知った夫のラボの秘書のレネは、日本人教授から、JAPAN SOCIETY(1907年に設立され、『合衆国の人々と日本人とが相互に理解し合い感謝と協力の気持ちを持ち続ける』という理念のもとに現在も活動している組織である。[Wikipediaより]以下J.S.)の掲示板に「譲ります。売ります」のコーナーがあると聞いてきてくれた。

さっそく、夫と二人で出かけていき、近々帰国なさる商社マンの方からフォード・グラナダという車を譲っていただくことになった。スカースデールのご自宅で車検証をいただいて、日本人相手の(日本語の通じる)保険会社も紹介してもらいお支払いをした時、「どうせお譲りするなら同胞である日本の方にと思っておりました。可愛がってやってください」と仰ったことが今も心に残っている。

設立された20世紀初頭から、戦争で日本人収容所に隔離された時も(現実として存在している)いわれのない差別の中でも、我々日本人たちは互いに助け合って歩んできたのだろう。

初めてのボランティア

さて、J.S.の掲示板で「ボランティア募集」の張り紙があったのを見つけた私は、J.S.の設立の理念など何も知らないままに応募してみた。私が出かけて行ったのは、最新のグーグルマップで見た本部の外見とは全く異なる古い石造りの建物だったから、支部か別棟だったのかもしれない。

ボランティアの内容は、アメリカに移住した日本人の先輩方の様々な体験を、録音したテープから文書にする、いわゆる「テープ起こし」だった。既に亡くなった方もいらっしゃる貴重なテープもあるので、持ち帰ったりせずにJ.S.で全ての作業をして欲しいという条件が付いていた。

ご出身地の方言(特にイントネーション)が混じる、途中で英語が混じる、たぶんご高齢で滑舌があまりよくない、というかなり聞き取りにくいテープ相手に四苦八苦した。それでもなんとか文書にしてみると、興味深いことに気づいた。私が文書にしたのは三、四人の方々で、文章も長短いろいろだったが、「詳しいことは忘れた」「細かいことは…もう覚えていない」と異口同音に仰るのだ。話される場面は「あの頃は○○さんもいて、△△さんもいて、みんなで一緒によくやったよ…」とか「子どもたちもみんな元気で食べ盛りで、毎日のご飯を食べさせるのに精いっぱいだった」とか、苦労話というよりもむしろ懐かしい昔話ばかりだったのだ。苦しみやアメリカ社会に対する恨みつらみはたくさんあったろうに、なぜそれを話されないのだろうとほんの30歳だった私には不思議だった。

今なら、たぶんもっと分かる。本当に苦しかったこと、涙も出ないくらいに辛かったことは、心の奥深くに深い傷として封印されているのだと思う。長い時間を経ても言葉にすれば傷はまだ血を流すのだろう。ずっと後になって、自分自身がその辛い思いを封印しなければ息もできなかったとき、ああ、こういうことだったのか……と納得した。

次は『Japan Societyの貴婦人』についてレポートします。

 

YOKO☆瑛琉(える)

2017年3月まで高校国語科教員でした。新婚の頃と、子どもが5歳の時と、二度アメリカに滞在する機会を得ました。その数年間のさまざまな体験が、妻として、母として、教員としての私の人生の基盤になった経緯をレポートします。

マイページに保存

\ この記事をみんなに伝えよう /

注目企画