北朝鮮による拉致被害者家族の真実(1)

横田早紀江さん、戦友だった夫・滋さんとの歩み

公開日:2022.08.31

更新日:2022.11.15

1977年、最愛の娘・めぐみさんが突然いなくなり、20年後の97年、北朝鮮にいることが判明。娘を取り戻す活動に全身全霊を傾けた夫・滋さんを見送った2020年の秋、横田早紀江さんに思いを伺ったインタビューです。

「めぐみに会うために」夫婦二人三脚でがんばり続けた

「めぐみに会うために」夫婦二人三脚でがんばり続けた
初節句の日、めぐみさんを笑顔で抱きしめる滋さん。

「あの日まで、ごく普通な家族だったんです」と横田早紀江(よこた・さきえ)さんは振り返ります。

銀行員だった滋(しげる)さんの転勤に同行して新潟に行ったのが1976年。その後、中学1年生だった長女のめぐみさんが下校途中に突然姿を消します。朝鮮による拉致という考えぬ事実が思い当たる。

滋さんは拉致被害者家族連絡会の代表を10年務め、早紀江さんとともに全国各地で講演し、集中して演説を求め、議員や記者に拉致問題の重要性を示すなど精力的に活動「私たちは夫婦であり、戦友でした」と早紀江さんは語ります。

「お父さんはできるだけのことを全身全霊でやり遂げた」

「お父さんはできるだけのことを全身全霊でやり遂げた」
2013年、埼玉県で読まれた講演会の舞台袖で。早紀江さんは「きちんとお話できますように」と祈ります

※インタビューは、2020年10月に行いました。

お父さんが天に召されたのが2020年6月5日。もう5ヶ月(当時の取材)が過ぎました。最後の2年間は入院して、ものが食べられなくなる胃で頑張っていたんですでも、徐々に痩せて弱っていきましたから、かわいかったですね。

でも意識は最後まであって、お見舞いに行くとパッと笑ってくれて。愚痴のひと言も言わないで、本当に強い人でした。きっと、めぐみに会うために何とかがんばらなきゃと、その一心だったんだと思います。

今もお父さんが近くにいるような気がして、不思議と喪失感がないんです。

毎朝、葬儀で遺影にした笑顔の写真に向かって「おはよう」と挨拶して、一緒に数分間お祈りした後、「お父さんは食べられなくて、ごめんね」なんて話しかけながら朝食をいただきます。

ときどき“もういないんだなぁ”と、何ともいえない寂しさが込み上げてきますけど、よよと泣き崩れるようなことはないですね。“お父さんはやれるだけのことを全身全霊でやり抜いてくれた”という感謝の思いがありますから。

病院で亡くなるときも、「何か声を掛けてください」と看護師さんから言われて、普通なら「お父さん、行かないで」と言うんでしょうけど、私は「お父さん、天国に行くんだよ! 私も行くから待っててね」なんて大きな声で言ったので、みんなびっくりしたと思います。

お父さんは必ず天国に行くと確信できましたから、すがすがしい気持ちで見送れました。

「めぐみに会うために」夫婦二人三脚でがんばり続けた

楽しく平穏にいられるように…それが一番の生きる意味
1972年、広島で。めぐみさんの失踪前は家族でよく旅行をしました。写真提供=横田早紀江さん

ついにめぐみに会えないままだったのは、本当に無念ですよ。

でも「めぐみちゃんが帰ってきたら、すぐお父さんのお墓の前に行って、『帰ってきたよ』と報告させてあげるからね」って息子たち(めぐみさんの双子の弟、拓也さんと哲也さん)とも約束しました。だから落ち込んではいられないんです。

人間っていったん崩れてしまうと、立ち上がるのが大変なんですね。そのことは、めぐみがいなくなった直後に痛いほど経験しました。

あの頃、私は家族を送り出すと、めぐみの姿を求めて海辺や新潟の街をあてどなくさまよい歩き、“ここで倒れて何もわからなくなったら、どんなに楽だろう。いっそ死んだ方がいい”と毎日のように思っていました。

家にいると、いろんな新興宗教や占いの人が来て「お金を積めば居場所がわかる」なんて言われて、何も信じられず……。

泣いてばかりいたとき、「よかったら読んでみて」と聖書を持ってきた方がいたんです。最初は分厚いし字は細かいし、とても読めないわと思いました。でもすすめられた「ヨブ記」を読むうちに、一気に引き込まれました。

ヨブという人は、子どもも財産もいちどきに失って、自分もひどい病にかかります。あまりの悲惨さに生まれてきたことを呪い、神を恨みもしますが、最後は苦難に打ち勝っていく――。

ヨブの苦しみを“そうよ、そうなのよ”と私は泣きながら読みました。そして、この世には人間の力では及ばない、大きな存在があって、私やめぐみの運命も人智を超えた定めなのかもしれない――と思うようになったんです。

だからといって苦しみが消えたわけではなく、つらい現実もあります。でも精神的には穏やかになりました。

それに、人の痛みを考えられるようになっただけでもよかったなと思うんです。どんな苦難があっても、できるだけ楽しく平穏にいられるようにする――それが一番の生きる意味ではないでしょうか。

「お父さんはできるだけのことを全身全霊でやり遂げた」

私もできることはやり尽くした!と言えるように
1976年、新潟に引っ越してすぐの頃。写真提供=横田早紀江さん

めぐみは、楽しい子でした。

学校から「ただいまー。今日こんなことがあったんだよ」と大きな声で話しながら帰ってきて、私が「そんな大声だと、隣のおばあちゃんが笑うわよ」と言うと、「いいのよ、笑っても」なんて、ほんとに噴き出すような話をするんです。

北朝鮮から帰ってこられた曽我ひとみさんに、向こうで会っためぐみのことを聞かせていただいたとき、楽しい人ではあったけれど、よく泣いていたと言っていました。お父さん、お母さん、拓也、哲也と、何度も何度もノートに書いていたと……。

やっぱり悲しい悔しい思いだったんだろうなと思います。でも持ち前の明るさで、きっと元気にやっているときもあるだろうと考えるようにしてきました。

2020年10月(取材当時)の誕生日でめぐみは56歳になりました。途方もない年月が流れ、私に残された時間は本当にわずかです。お父さんのようにやれることはやり尽くしたと私も言えるように、日々を生きていくつもりです。

次回は、2013年に「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」の活動で、夫・滋さんと一緒に全国を飛び回っていた日々のインタビューを紹介します。

楽しく平穏にいられるように…それが一番の生きる意味

  • 1964(昭和39)年10月5日、横田滋さん、早紀江さん夫妻の第1子としてめぐみさん誕生。
  • 1967(昭和43)年、双子の長男・拓也さん、次男・哲也さん誕生。
  • 1976(昭和51)年、滋さんの転勤で新潟へ。
  • 1977(昭和52)年11月、中学校から下校途中にめぐみさんが失踪。
  • 1997(平成9)年1月、めぐみさんが北朝鮮にいるという情報がもたらされる。
    3月、拉致被害者家族連絡会が発足し、滋さんが代表に就任。
  • 2002(平成14)年9月、小泉首相が訪朝し、第1回日朝首脳会談。蓮池さん夫妻、地村さん夫妻、曽我ひとみさん帰国。めぐみさんの娘ヘギョンさんの存在が明らかに。
  • 2004(平成16)年5月、第2回日朝首脳会談。蓮池さん、地村さんの家族が帰国(その後、曽我さんの家族が帰国)。
    11月、北朝鮮側はめぐみさんが死亡したとして遺骨を提出(その後、遺骨は別人のものと判明)。
  • 2005(平成17)年、滋さんが難病「血栓性血小板減少性紫斑病」で倒れるが、その後回復。
  • 2006(平成18)年、早紀江さんがブッシュ米大統領と面会。
  • 2007(平成19)年、滋さんが家族会代表を退任。
  • 2014(平成26)年3月、横田さん夫妻がヘギョンさんとモンゴルで面会。
    4月、滋さんらがオバマ大統領と面会。
  • 2017(平成29)年、早紀江さんがトランプ大統領と面会。
  • 2020(令和2)年6月5日、滋さんが死去、87年。8日、川崎市の教会で葬儀。9日、早紀江さん、息子の拓也さん、哲也さんが記者会見楽しんで、めぐみさんの救出を誓う。

取材・文=五十嵐香奈(ハルメク編集部) 撮影=中西裕人
※この記事は雑誌「ハルメク」2020年12月号を再編集し、掲載しています。

私もやれることはやり尽くした!と言えるように

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