あれもやりたい、これもやりたい!

40歳からの私

公開日:2018.11.27

80代に入ってからも趣味・仕事に奔走する日々。アクティブになったのは、アメリカ旅行で性格が様変わりしたことがきかっけでした。奥様使節の思いがけない海外旅行から帰った3か月後、再就職へ。動き出した生活について語ります。

フルタイムの再就職をした頃
フルタイムの再就職をした頃。

同じデスクへ再就職

奥様使節の思いがけない海外旅行から帰った3か月後、結婚前に勤めていた事務所に欠員ができて、20年ぶりに古巣の同じ机に再就職しました。

若くない、家庭との両立、高齢の義父母がいるなどハンデだらけでした。子どもたちは高校生になっていました。奥様使節の面接で「中年まっ盛りと言ったけれど40歳なんてこれからよ!」とはっぱをかけられたのを思い出して飛び込みました。

フルタイムの再就職は、朝早くから食べざかりの息子二人と自分の弁当を作り、帰宅後は家事、洗濯は夜のうちに、と若かったからできたのですね。次男の卒業式は義父の葬儀と重なり、4年後には義母を見送りました。通っていた書道は添削だけでもしてもらいたいと思っていましたが、止めざるを得ませんでした。

 

旧丸ビルの事務所の前で。
旧丸ビルの事務所の前で。

 

テレビ朝日放映の「東京のこだま」という教育番組のモニターもしていました。このモニターたちで「このまま別れるのは惜しい」と作られた自主グループ「東京のこだま会」でテレビに出演し、有名人と共演したことも。

 

「東京のこだま会」は、くらしとレテビの関わり方について調査・分析活動もし、その活動が新聞にも掲載されました。

 

週一回、30分の卓話テープを400字詰め原稿用紙10枚に起す仕事があり、パソコンなどない時代ですから3Bの鉛筆で、午後2時ごろから始め、翌翌日10時が入稿です。他の仕事もありますからそれだけに関わってはいられません。

話し手が、できた原稿を読みたいと言われると仕事場やご自宅へ。仕上がるのは夕方、ですから家に帰ると20時過ぎでした。お話されなかった事を書き加えられたり……大変でしたが勉強になりました。

 

定年退職後

退職後もテープ起こしを頼まれ、他の同系列の事務所からも頼まれて10年くらい続けました。再就職した頃にはワープロが普及して随分楽になりました。

家でワープロを使っていたある日突然、液晶画面が真っ暗になりました。直すのには一週間かかるので、習い始めていたパソコンを使ってみました。週報の原稿ですから次の日には届けなければなりません。

一回目は2段組みの左側がデコボコになったのですが、2度目からは綺麗に出来るようになりました。息子に電話で聞き聞きでしたが、必死でした。人間必要に迫られると何とかなるものです。それからパソコンがますます身近に、使いこなせるようになりました。

今も時々、小・中学の友人に頼まれて調理専門誌(季刊)の「食べてみて座談会」のテープ起こしをしています。

※イメージ

仕事と並行して

奥様使節の会でも幹事として、会報編集、バザーや講座等々に参画し、有意義な時間を過ごしました。現在の私が形成されていったのは様々な経験のお陰だと感謝しています。

女の子は近くにという父の方針で、高校も大学も歩ける距離でした。実家に越して近くなった高校同窓会の幹事を仰せつかり忙しくなりました。

パソコンが使えるのが幸か不幸か、70歳になってから高校同窓会事務局長として年齢など考える暇なく、頼まれると断れず超多忙な毎日になりました。

 

その他の趣味など

30年ほど前から座の文芸「連句」に誘われ、俳句も知らずセンスもなく、一向に上達しませんが、面白くて続いています。歳時記とペンと紙があればできるので一生続けられると思っています。皆さんもいかがですか。

「30~40代はエレガントに、50~60代はチャーミングに……70代~は?」「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」といいます。女性の寿命は限りなく90歳に近付いています。80歳を過ぎてもまだ新しいことに興味があり、やってみたいことがありますが体力が問題です。折り合いをつけてやれたら嬉しいと思っています。

次回はパソコンのこと、ミシンでバッグなどを作ったことについてお話したいと思います。

 

中井 淑子

東京で生まれ育ち、田舎のある方が羨ましいです。恥ずかしがり屋、赤面症の目立ちたくない女の子でした。しかしアメリカを訪れたことをきっかけに積極性が花開き、今も趣味や仕事に多忙な毎日。これからやってみたいこともたくさん。自分を変えた出来事や趣味のことを綴っていく予定です。

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