「昔はこんなに強くなかった」黒柳徹子さんを支える3つの大切な言葉とは?
「昔はこんなに強くなかった」黒柳徹子さんを支える3つの大切な言葉とは?
公開日:2026年05月11日
お話を聞いたのは、黒柳徹子(くろやなぎ・てつこ)さん

東京出身。1953年にテレビ女優第1号としてNHK放送劇団に入団。61年、文学座研究所に入所。71年にはニューヨークに1年間留学。76年に「徹子の部屋」がスタート、2011年には「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定された。テレビ、ラジオ、舞台で活躍する他、1984年よりユニセフ親善大使を務めている。著書に『窓ぎわのトットちゃん』『トットひとり』など。
「大切な言葉があったから何とかやってこられた」
黒柳徹子さんは、日本のテレビ放送が始まった1953年にNHK放送劇団に入団。以来70年以上、数々のラジオやテレビの番組、舞台に出演し、今も第一線で活躍しています。
「たぶん私は、自分でも想像しなかったくらい強くなったんでしょうね。昔、仕事を始めた頃はこんなに強くなかった。もっといい加減で『やらなきゃ』っていう気持ちはそんなになかったと思います。
私がこの世界に入ったのは、“子どもに上手に絵本を読んであげるお母さんになりたい”と思ってNHKの放送劇団に入ったのがきっかけ。
プロ意識が足りなかったといえば、そうかもしれません。でもだんだんと、沢村貞子さんや渥美清さんをはじめいろんな方たちをそばで見て、何気なくかけてもらった言葉に励まされたり、救われたりして、やっぱり『ちゃんとやらなきゃ』って気持ちが強くなったんでしょうね、きっと。
いろんな方との出会い、そして私にかけてくれたささやかで、大切な言葉があったから何とかここまでやってこられました」(黒柳さん)
中でも印象的なのは、若かりし日の黒柳さんが家族のように親密な時間を過ごした2人の女性とのエピソード。一人が脚本家で小説家の向田邦子さん、もう一人が女優の沢村貞子さんです。
黒柳さんが毎日のように自宅に通った、向田邦子さん
「向田さんは私の4つ上で、初めて会ったのは彼女が書いたラジオドラマに出演したとき。30代半ばだった向田さんは、まさに売れっ子になろうとしている頃でした。
当時、私はテレビ朝日とNHKとTBSと掛け持ちで仕事をしていて、テレビ局に近い向田さんのマンションが便利だったこともあって(笑)、本当に毎日、通っていました。
別に何をするわけじゃないんです。私は長いすに横になって本を読んだり、セリフを覚えたりして、向田さんは机に向かって何か書いたり、やっぱり本を読んだりなんかして。
時間がたつと『ごはん食べようか』と言って、おいしい料理を作ってくれました。ナスの煮びたしとかサヤインゲンのショウガあえなんかをチャチャッと作るのがとても上手な人でした。
どうして向田さんは、毎日やって来る私に何も言わないのかなと時々思うことがありました。
これは向田さんが亡くなった後、妹の和子さんがお出しになった『向田邦子の恋文』を読んでわかったんですけど、向田さんは恋人が亡くなって、すごく寂しい時期だったみたいね。だから面白い話もする年下の私がいると、ちょうどよかったのかもしれません」(黒柳さん)
大切な言葉1:「禍福はあざなえる縄のごとし」
「あるとき向田さんのシナリオに『禍福はあざなえる縄のごとし』というセリフがあって、私がどんな意味かと聞くと、『幸せと災いはね、かわりばんこに来るの。幸せの縄と不幸の縄をよってできているのが人生なのよ』って。
私が思わず『幸せの縄2本で編んでる人生はないの?』と質問したら、『ないのよ』って向田さんは即座に言いました。向田さんが亡くなったとき、本当にそうだと思いましたね。
向田さんが直木賞をもらって『おめでとう』とみんなでお祝いして、それから1年もたたないうちに飛行機事故で台湾の空に消えてしまった。まさに禍福はあざなえる縄のごとし。向田さんの言った通りでした」(黒柳さん)
大切な言葉2:「早くおばあさんになってね」
「私は向田さんのテレビドラマに出たことは一度もなく、『私の書く日本の家族に、徹子さんみたいな人は出てこないの』と向田さんは言っていました。『でもね、外国映画のおばあさんみたいに、あなたにしかできない面白いおばあさん役があると思うの。早くおばあさんになってね』って。
時々思い出して、なんだ、向田さん、書いてくれるって言ったじゃないと思ったりすることがあります」(黒柳さん)
黒柳さんのもう一人の母、沢村貞子さん
もう一人、黒柳さんが「母さん」と呼んで尊敬していたのが女優の沢村貞子さんです。出会った頃、沢村さんは50代、黒柳さんは20代。以来、沢村さんが87歳で亡くなるまで深く温かい交流が続きました。
大切な言葉3:「一生懸命やると、後悔しない」
「最初にお会いしたのはNHKの番組『若い季節』でした。渥美清さん、坂本九さんをはじめたくさんのスターが出ていて、本番前にみんなで連れ立って晩御飯を食べに行くんですが、母さんは行かないでいつもお手製のお弁当を食べていました。
つくねやお豆腐の炒ったのなんかが入ったおいしそうなお弁当で、私も半分もらって食べたりしていましたね。
撮影現場の母さんは怖かったですよ。セリフをちょっとでも覚えていないと『ダメだよ、覚えてこなきゃ』、みんなでふざけていると『ここは真面目なところなんだからね』と叱られて。
母さんはきちっとセリフを覚えてきて、とにかく早く撮影を終わらせ、早く帰って、父さん(編集部注・夫で編集者の大橋恭彦さん)にごはんを作りたかったんです。
母さんは父さんを大切にしていて、いつも一生懸命で、“そこまでするのか”と私が驚くほどでした。
母さんは晩年、『徹子の部屋』に出たとき『人間ってね、一生懸命やると、後悔しないものよ』と言いました。この言葉に、母さんという人が集約されているように思うんです。
母さんは生涯、父さんのためにできるだけのことをやって、だから後悔も未練もなかった。母さんが亡くなったのは、父さんの三回忌から3か月後。凛とした最期でした」(黒柳さん)
くよくよせず好奇心を持つことが私の一番の健康法
前述のNHK『若い季節』の撮影現場で、黒柳さんは大泣きしたことがあったそうです。
「みんなで雑談中に『私は100歳まで生きて、たくさん楽しいことをするの』と言ったら、共演していた小沢昭一さんから『いいけどさ、そのとき思い出話をできる相手が誰もいないってすごく寂しいことだよ』って言われて。私はワーワー泣いて『じゃあもう長く生きない!』なんて言ったんです。
でも結果的にみんないなくなって、小沢さんが言ったことはほんとだなってつくづく思います。だけどそれを乗り越えないわけにいかないし、あれこれ考えてもしょうがないこと。おいしいものを食べたり、本を読んだり面白いことはいっぱいありますから、それほど孤独感はないですね。
最近夢中になって読んだ本は『僕には鳥の言葉がわかる』と『国宝』。時間を忘れるくらい面白かった。くよくよせず好奇心を持つことが私の一番の健康法です」(黒柳さん)
まだある、黒柳徹子さんの大切にしている言葉たち
『トットあした』新潮社刊/1760円

「あなたの、そのままが、いいんです!」と言ってくれた劇作家の飯沢匡さんをはじめ、トモエ学園の小林校長、渥美清さん……。人生のさまざまな場面で黒柳さんが受け取り、励まされてきた言葉たちでたどる自伝的エッセー集。
取材・文=五十嵐香奈(ハルメク編集部)、撮影=下村一喜(人物)、中西裕人(本)
※この記事は、雑誌「ハルメク編集部」2025年10月号を再編集しています。




